志の輔らくご ひとり大劇場 8/16昼の部



8/6(土)14:00〜16:30@国立劇場 大劇場
『生まれ変わり』
三方一両損
仲入り
中村仲蔵



会場に入って花道があるのに気づき「もしや?」と思ったが、予想通り最後は『中村仲蔵』。演目・演出ともにこの会場に相応しいものだった。昨年正月パルコの1ヵ月公演で観た『中村仲蔵』も素晴らしかったが、今回はなにしろ本物の歌舞伎の舞台で演ってるわけで、五段目のシーンの本格感・臨場感はパルコ以上だったかもしれない。花道を活かした演出、ツケや下座が効果的に落語を盛り上げた。


マクラで“お盆”にまつわる話をして『生まれ変わり』へ。この前これを観たのは2006年大銀座落語祭・六人の会メンバーによる桂三枝トリビュート公演。そこで志の輔師がこれをやった。それ以来だから久々に観たことになる。この新作、わたしの中では、三枝作ではなくて、完全に志の輔らくごなんだよなぁ。
酔っ払ってトイレでふらついて便器に頭をぶつけて死んでしまったマヌケな男。“あの世”と“この世”の境にある“その世”(笑)で、「生まれ変わり」窓口の係に、次に何に生まれ変わりたいか?の選択を迫られて悩むお話。
次は“女”になりたいという男に、係がチャート式で質問していく。気立てがいいのと悪いのと、どっちがいい?と尋ねられ、当然“いい”ほうを選ぶ男。しかし「“気立てがいい”と“ブサイク”はセットになってます」。“気立てがいい”を選ぶと自動的に“ブサイク”になってしまうのだ。“気立てがよくて器量よし”という選択肢は“その世”にはないのであった。“その世”は厳しいですねw。
同様に“男に苦労しない”は“もてない”とセットになってる。辛いことの少なそーな道を選ぶと、どんどん冴えない人生になっていく。でも、胸の大きさは選べたりする。「器量は選べないけど、胸は選べるんですね?」「オプションです」w
男は最後に「“お酒が呑め”て“おしゃべり”で“じっとしてる仕事”に就く男」に生まれ変わることを選ぶ。そうやって生まれ変わったのが、1954年・富山県に生まれた竹内照雄クンだったとさ。


三方一両損 ヒトがなにを「面白い」と思うかは実に人それぞれで、本人がサイコーに面白いと思っていることも、他人から見ると「それって何が面白いの?」ってコトがよくあります、でもヒトは自分が面白いと思ったことをわかって欲しいものなのです…というマクラから噺へ。志の輔師の『三方一両損』は、もしも“奉行が一両出して三方一両損”というロジックが理解されなかったら…?という落語常識を突く噺で、そういう視点がさすが志の輔師という感じ。得意満面に三方一両損の仕組みを説明する南町奉行大岡越前。でも、その理屈を、大工も左官も大家も町役人も誰ひとり理解しない。「なんでお奉行さまが一両出すんですか?」。
「ゆうべ寝ないで考えたのだ!面白いのだ!」「後世に残るのだ!」って必死で賛同を求める大岡越前が滑稽。
落語って「ここは面白いところです」という“きまりごと”とか“常識”で笑ってるようなところもなくはない。落語を聴きはじめた頃は、自分も「それの何が面白いの?」ということはあった気がする。最近は落語の垢が大分ついてきたので、わたしも落語常識にのっとって条件反射で笑ってたりするのかもしれない、無意識に。落語ビギナーは、周りで笑ってるひとたちから「面白いのだ!」って言われてるような気がするのかもしれないなぁ。…なんてことを考えたりしました。


さて中村仲蔵 五段目の芝居のシーンの演出の素晴らしさもさることながら、志の輔版『中村仲蔵』は、非常に共感性の高い、痛快且つハートウォーミングなストーリーになっているのがいい。身分制度が厳然としかれた世界で出自の低い役者・仲蔵が異例の出世をとげるというのが、まずドラマチックで痛快。ただ、仲蔵は才気走った人間ではなく、普通に失敗したり悩んだりもしていて、そんな男が団十郎と女房に見守られながら、一段一段名人への道を登っていく。自分の才能を手がかりに自分を取り巻く世界を変えていく姿が爽やかな感動をよぶ。見せ場の五段目の芝居シーンの後、仲蔵が江戸の町で芝居を観た客の賞賛の声を聞き、団十郎に会いに行くラスト。昨年のパルコで観た時もそうだったけれど、たまらなく胸が熱くなる。


はじめに、当時の役者の身分制度の解説や、名題になるまでの仲蔵のエピソード等がかなり丁寧に語られるが、これは志の輔版の特徴の一つみたい(わたしはそんなにたくさんの人の『中村仲蔵』を聞いてないので“みたい”としか言えないんですが)。
稲荷町から中通りになり、口上役ができるようになったが、ある時「申し上げます」に続いて言うべきセリフを覚えずに舞台に上がってしまった。しかし、とっさの気転でしくじりを防いだ仲蔵は、団十郎の目に留まる。それがきっかけで相中にとりたてられる。「稲荷町から相中になった者はいませんよ」と反対する周囲に、団十郎「してみたい男だ」。
更に鎌髭で宿屋の下男役を与えられた仲蔵は独自の工夫で見物客を唸らせ、団十郎をして「只者じゃないな」と言わしめる…。この解説やエピソード紹介の部分はちょっと長いのだけど、仲蔵の才能、それを見抜いた団十郎の慧眼と人物の大きさが印象に残り、それが共感の素地を作っているんだと思う。


団十郎の鶴の一声で仲蔵は名題にとりたてられるが、周囲のねたみを買う。名題として初めて与えられた役は“五段目 斧定九郎 一役”。役不足に悄然とする仲蔵だが「…やらなきゃならないのなら、誰もやったことのない定九郎をやろう」と決意する。
妙見様に「よい工夫の智恵を授けてください」とお参りし、その満願当日、驟雨に遭って駆け込んだ蕎麦屋で、運命の浪人者に出会う。


この噺、実は仲蔵自身よりも、団十郎、女房、仲蔵の定九郎を観た芝居好きの町人たち…といった脇役達のほうが魅力的だと思う。登場するのは一瞬だけれども、志の輔師は実に印象的なセリフを言わせる。この蕎麦屋の浪人者もとても魅力的だ。自分のナリを熱心に観察してあれこれ尋ねる仲蔵が、自分を芝居の趣向に使おうとしていると気づいた浪人は「役者!おまえの目はいい。実にいい目をしている」「うまくやれ!(芝居を)観にはいけんがな」と豪快にカラカラと笑う。去り際に酒代を置き、蕎麦屋の親父に「おそらく足りん!」と言うのも愉快。そして、もう一度仲蔵に「役者!うまくやれよ!」と声をかけ、風のように去っていく。カッコいいなぁ。


この浪人にインスパイアされて新しい定九郎の役作りを確信した仲蔵は、女房・お吉に自分の工夫を舞台にぶつける決意を語る。そして、もしも失敗した時は江戸にはいられない、一人で上方へ行くつもりだと打ち明ける。夫の決意を聞いたお吉はにっこり笑って「大丈夫。あたしは役者の女房だよ」。この場面もいいなぁ。わたしが初めて『中村仲蔵』を観たのは円楽師の高座だったが、円楽師の女房は賢いしっかり者で、常に仲蔵を励ましていた。そういう女の人もエライと思うけど、志の輔師の、何も言わずににっこり笑って亭主を安心させる女房・お吉は可愛くて素敵だ。


ついに初日の幕が開く。
この五段目のシーンを、志の輔師は臨場感あふれる演出で再現する。
わたしはセンターブロックの最前列で観ていた。左後方で揚幕がチャリン!と鳴った時、正直言うと去年のパルコより凄いことを期待していたわたしは、もしや花道を定九郎が駆けてくるのでは…と振り返ってしまいましたw。もちろん、誰も出てこなかったけれど、照明が花道を照らしていて、なるほど国立劇場ならではの演出だと思った。
(後にマイミクの方々の日記やいろんなブログで、まず花道七三のところまでフットライトがついて、定九郎がそこで立ち止まったことを表現していた…ということを知った。最前列からは花道のフットライトが見えなかったのだ。これは悔しい。あの仲蔵は2階席で観るのがベストかもしれないと思った)。


「おおーい、とっつぁん!連れになろうかーい!」
花道の傍らで下を向いて弁当を食べている客達の横を、すっかり塗りあげた定九郎の白い脚がタタタタッと駆け抜ける。照明と共に「バタッ・バタッ・バタ・バタバタバタ…」というツケの音が定九郎の疾走と舞台上の動きを表現する。
降りかかる水しぶきに、何事だ?と顔をあげた客達は、観たこともないこしらえの定九郎に息を呑む…。
バッと破れ傘を広げ、肩に担いで見栄を切る仲蔵。「栄屋!」「ご趣向!」「日本一!」…という声がかかる「はずだった…」。驚きで声もない客席に、しくじったか?と不安になる仲蔵。
五段目の舞台と、仲蔵の内心の不安と焦りが併行して語られ、高座に引き込まれていく。


暗闇の中、与市兵衛を斬って、口にくわえた奪った財布の中味をあらためた仲蔵、「五十両〜」。
「チチチチチ…」と三味線の忍び三重が鳴って、芝居の雰囲気たっぷり。
最後まで静まり返ったままの客席に、舞台の仲蔵は心の中でつぶやく。「…そんなに気にいらねぇかよ」「死んでも死にきれねぇぜ」
…こうして、本物の舞台さながらに五段目が描かれるのだが、実に華やかで素晴らしかった。


失敗したと思い込んだ仲蔵が上方へ向かおうと、顔をかくして江戸市中を歩いていく。ここで仲蔵は五段目を観た観客の声を聞くのだが、この場面に出てくる町の人たちがとても好きだ。感に堪えたように「息吸うと声でねえのな」って言う男、「今日まで生きててよかった…あれがホンモノだ。あれがホントの定九郎だ」とつぶやき、「定九郎は死んだぁー!勘平が打ったー」と泣く老人。
その声を、わたしたちは定九郎の気持ちで聞いている。だから、この場面ではどうしても感極まって涙がこぼれそうになるのだ。


大急ぎで家に戻った仲蔵は、迎えに来ていた遣いと一緒に団十郎宅に向かう。「出過ぎたことをしました」と頭を下げる仲蔵に、団十郎は目を細める。「あんな見事な出過ぎは初めてだ」と。
そして、役者達が「今日見せていただいて、目が覚めました。新しい役作りにつかってください」と届けてよこした25両の金を仲蔵に渡し、ひとこと「お前の勝ちだな」。
気持ちのいい物語の結末だ。


お前の仲蔵は後世に残る、お前は芝居の神様になるという団十郎。仲蔵は、てっきりしくじったと思って死んでお詫びするしかないと思っていたと打ち明ける。すると団十郎「神様になろうって男が、仏になっちゃいけねぇ」。これがサゲ。


昨年パルコで観た時は、仲蔵と志の輔師が重なり、その迫力に「凄い!」と思った。
今回は、マイミク某氏の言葉を借りれば、志の輔師の“エンターティナーとしてのスケールの大きさ”に感動した『中村仲蔵』だった。