六月後半の落語



6月後半の収穫は志の輔師の『高瀬舟』。次いで喬太郎師の横浜開港150周年記念創作落語かな。まずは落語活動状況報告(だれに報告してるのか、だれがこの報告を待っているというのか・・・)。あ、今回、長くなります。


6/19(金)
くらぶ歌
19:00〜20:47@なかの芸能小劇場
開口一番 三遊亭多ぼう『牛ほめ』
三遊亭歌武蔵『天災』
仲入り
月の家鏡太『天狗裁き
三遊亭歌武蔵『ぼやき酒屋』



6/20(土)
第90回 朝日名人会
14:00〜17:00くらい
?※時計してなかったからわかりません有楽町朝日ホール
開口一番 柳家花いち 『まんじゅう怖い』
入船亭遊一 『たがや』
柳亭左龍 『夢の酒』
立川志の輔 『バールのようなもの
仲入り
古今亭菊之丞 『幾代餅』
柳家小三治 『大工調べ』



6/21(日)
志の輔らくご 21世紀は21日
14:00〜16:05@新宿明治安田生命ホール
志のひこ 『たらちね』
志の輔 『大名房五郎』
松元ヒロ スタンダップコメディ
志の輔 『高瀬舟



6/22(月)
鈴本特撰会 さん喬権太楼二夜 第一夜
途中入場〜21:15

権太楼 『猫の災難』
おたのしみビンゴ
仲入り
権太楼&甚語楼 寄席の彩り(透視術)
さん喬 『百年目』



6/27(土)
柳家喬太郎 横浜開港150周年記念独演会 昼の部
14:00〜16:43@横浜にぎわい座
開口一番 瀧川鯉橋 『だくだく』
柳家喬太郎 『禁酒番屋
橘家文左衛門 『ちりとてちん
仲入り
柳家喬太郎 喬太郎作・長編大河落語
※タイトルはまだついてないみたい


6/28(日)
鈴本特撰会 鈴本四騎の会
17:30〜20:40@鈴本演芸場
開口一番 入船亭辰じん 『道具屋』
入船亭扇辰 『野ざらし
橘家文左衛門 『子は鎹』
仲入り
柳家喬太郎 『笑い屋キャリー』
柳家三三 『妾馬』



6/29(月)
リビング名人会 立川談志
18:30〜20:44@よみうりホール
開口一番 談修 『家見舞い』 踊り(奴さん)
談志 『ずっこけ』 
仲入り
談志  『よかちょろ』〜『山崎屋(中)』



6/30(火)
30日WA百栄落語会
19:00〜20:50@studio FOUR
『とんびの夫婦』
お菊の皿
仲入り
『七つのツボを圧す男』
『かんしゃく』



◆良かった落語
立川志の輔 『高瀬舟』・『大名房五郎』(6/21 志の輔らくご21世紀は21日)
二席とも、この会の前日(20日)、ごく小数の選ばれし客wだけが行ける「巣鴨四丁目落語会」でかけていて、それがネタおろしだったようです。
志の輔師は前回(5/21)のこの会で『三方一両損』のマクラで裁判員制度について語った時に、「最近、森鴎外の『高瀬舟』を再読した」という話をしました。その際、『高瀬舟』の粗筋を少しだけ語ってくれたのですが、実にきちんとした語りで「もっと聴きたい!」と思ったものでした。おそらくその時には既にこの作品を志の輔らくごにする心積もりだったのでしょう、でも、たった一ヵ月後に聴けるとは思わなかった。嬉しいです。


高瀬舟森鴎外の後期歴史小説の代表的作品。徳川時代、遠島の刑罰をうけた京都の罪人を載せたのが高瀬舟。その護送の役目についた同心・羽田庄兵衛は、ある時、弟殺しの罪を犯した喜助という男を送ることになる。舟の上で、庄兵衛に問われるまま、喜助は自分の身の上、弟殺しの経緯を語り始める・・・というお話(詳しくは本を読んでちょーだい)。
これを高座で語ったのだが、志の輔師自身は“「落語」でも「朗読」でもない”と仰っていた。
原作そのままの文章を語ったのではないが、地の語りは後期・鴎外の端正且つ客観的な文章の硬い雰囲気を残し、そこに志の輔らくごの演劇的な会話(原作にない庄兵衛とその妻のやりとりなど)、さらにこの日は鉄九郎社中による効果音(太鼓の川音)も加わり、それらが融合して“落語”とも“語り”ともつかない、志の輔らくごの新境地…といった印象でした。


“どこでもやれる噺ではない”“こういうものをやる落語家も少ない”と志の輔師は言い、しかし「自分はやりたい」と。こういう性質の落語が大勢に受け入れられるのかどうかは自分には分かりません。でも、演者に「やりたい」という気持ちがある限り、やる場はできるものだし、聴きたい客も集まってくるものではないかと思います。だって、お客がいちばん観たいのは、落語家自身が「他の奴らがどうあれオレはコレがやりたいんだよー!コレが面白いと思ってるんだよー!」と強く思っているものではないでしょうか?(少なくとも自分はそういうのが観たいです)。他にない・オリジナルなモノというのはそうやって生まれるんではないかなぁ。
ともかく、これを観ることができたのは本当にラッキーでした。


ついでに『大名房五郎』のこともちょっとだけ。
これは圓生宇野信夫の江戸新作シリーズのひとつ。そういえば4月のこの会では『江戸の夢』をなさいました。志の輔師の圓生師匠へのリスペクトが伺える気がします。


あらすじは…
茶室を作らせれば右に出るものがないという大工の棟梁・房五郎。書画・骨董を見る目も確かで、そんなところから「ひょっとして大名の落し子なんじゃないか?」とうわさされ、“大名・房五郎”と呼ばれていた。情けに篤い男でもあり、困っている人を見ると捨てて置けない。そんな房五郎のところに、吝嗇で評判の悪い質屋・万屋万衛門から茶室の造作の依頼があった。当時、大飢饉で江戸の町には路頭に迷う貧しい人達が溢れていた。そんなご時勢に茶室を建てようという万屋の仕事など断りたいところだが、その金で貧しい人達を助けられれば…と房五郎は仕事を請け負うことにする。仕事の相談に万屋を訪れた房五郎は、書画骨董を好む万屋に、母親の形見・岩佐又兵衛の掛け軸を50両で買ってもらいたいと頼む。万屋は、房五郎が仕事の手間賃と掛け軸の金を困っている人達に米を施すために使うつもりと知ると、露骨に鼻白み、そんなことに金を使うなら茶室も50両もヤメだ!とこの話を流してしまう。どうにも面白くないのは房五郎。そこで、岩佐又兵衛の掛け軸を使った意趣返しの一計を案じる・・・
というお話です。


万屋はケチで利己的な人物ですが、わたしはもっともっとイヤーな感じに描いてくれたほうがよかった。というのは、今の世の中にあっては、万屋のような人間の存在も、それはそれで分かっちゃう気もするからです。
自分はたったひとりで苦労してこの身代をこしらえた、誰一人自分を助けてくれなかった。今、自分は人に迷惑をかけたくないし、かけてもいない。その代わり、自分のやることを人からとやかく言われたくない。世の中がどうあろうと、自分は茶室を建てる。人に施しなどしない…そういう考え方は殺伐としているんだけれど、でも、そういうのに慣れっこになってる。「(人を助けるだなんて)ヤニ下がったことは言わないほうがいいよ。ひどい目にあうよ」という万屋に、「このヒトも苦労したんだね」なんて思ってしまう自分がおりました。
…というワケで、万屋がもっともっとお金に汚いヤな感じのジジイだったほうが、後で「ザマァミロぃ!」ってスッキリできた気がしました。


柳家喬太郎 横浜開港150年記念創作落語(6/27柳家喬太郎 横浜開港150周年記念独演会 昼の部)
この会のために作ったという喬太郎師の新作は上演時間1時間を越える長編でした。150年前の横浜に実在した港崎遊郭と現代の横浜を舞台にした2つのストーリーがパラレルで展開する、お芝居のような落語。
ひとことで言ってしまえば“男女の生理・心理の違い、それによるすれ違い”を描いたもので、さらに身も蓋もない言い方をすれば“未練がましい男と、前を見て生きていくたくましい女”の話です(すいません、女のわたしは、この手の男性の屈折に冷淡なところがありますw)。ただ、そういうストーリーを、史実を背景にした大河ドラマ的フィクションに作り上げた喬太郎師の腕は凄いと思いました。構成といいテーマといい、たいへん喬太郎さんらしい噺だった。


150年前の横浜のストーリーは、生糸商・中居屋重兵衛の失踪(これは本当にあった事件だそうです)をきっかけに、運命を狂わされる男女、卯之吉・お松の悲しい物語。
重兵衛の失踪で、中居屋に奉公していた卯之吉は幇間に、中居屋の出入り商人の娘だったお松は芸者になって、港崎遊郭で芸人として生きていくことになる。想いあっていた二人だったが、結ばれるのは難しい境遇になってしまうのです。お松は卯之吉への想いを胸に秘めて、贔屓客である上海出身の貿易商・李の求愛を断り、芸者として生きる決意をしている。しかし卯之吉は、そんなお松の心をはかりかねて、李への嫉妬とお松への猜疑心を募らせる。そんな卯之吉の器量の小ささ(…とわたしは断じてしまいますw)が、後に悲劇を招く。 


李はお松に自分と一緒に上海に来ないか?と誘っている。それを知った卯之吉は気が気でない。李について上海へ行くのか?行く気はないと言いながら、李に愛想良くしているのは、李を騙すつもりなのか…とお松を問い詰める卯之吉。お松は愛想もこそも尽き果てたといった口調で「そうね。行くかもしれないわね」。顔色を変える卯之吉に「だから、おまえさんがぐずぐずそんなことを言うから、こんなことを言いたくなるんでしょ!」・・・ここ、お松の気持ちがひじょーによく分かりました(笑)。でも、そんなぐずぐずした卯之吉をお松は好きなんだよなぁ。その気持ちが何故わかんないかなぁ?


一方、現代の横浜のストーリーはというと、上海への単身赴任を命じられた34歳の男が、つきあっている彼女に「待ってて欲しい」と言いたいんだけど、彼女の気持ちが分からない、それを先輩(46歳)に相談しながら、男ふたりで夜の横浜を彷徨う…というもの。この先輩こそ、純情日記横浜篇の主人公のその後であり、喬太郎師の投影であります。
この先輩のセリフに「“待ってるわ”なんつって待ってない女が山ほどいるんスよ!そんなコトの繰り返しですよ!」というのがあったんですが、ふーん、そういうことが小原クンにはあったのか…と思ったりしました(笑)。


ラスト、二つのストーリーは現代の山下公園で交錯し奇跡が起こる。後輩に「だからさ、前だけ見てろよ」って先輩のセリフが爽やかで印象に残る。純情日記のグズ男は、中年になっていいヤツになりましたね…と思いました。


志の輔師の『高瀬舟』も喬太郎師の創作落語も、その人らしさに溢れた落語で、わたしはそういうのが大好きです。


◆くだらなくてすげー可笑しかった落語
柳家喬太郎 『笑い屋キャリー』(6/28 鈴本四騎の会)
落語の壊滅を目論む暗黒組織「シカの穴」から送られる刺客と噺家たちの死闘を描いた話w(すげーくだらないです。でも可笑しい)。
シカの穴は都内定席の客席に次々と“笑い屋”を送り込む。笑い屋が笑うと、その笑いにつられて客席は異様に盛り上がり大爆笑が起きる。だが、笑い屋が笑うのを止めると、どんなに面白い噺家もイロモノも一切ウケなくなってしまう。客席の沈黙に身も心もズタズタにされていく芸人達。そして落語ファンは「なんだってこんなつまんないものに夢中になっていたんだろう?」と寄席から足が遠のき、落語ブームは急速に終焉を迎える。ちなみにキャリーは浅草演芸場に放たれたブロンドの女刺客です。
喬太郎師がかなり前からやっている新作ですが、わたしは初めて聴きました。落語界のウラ事情、あの噺家・この噺家のヤバいネタが満載で、これが見どころ(聞きどころ)です。これはライブで聴いてこそ!の落語だと思います、聴きたい人は辛抱強くいつかめぐりあえることを祈りましょー。


ひとつだけ、今も思い出すと笑っちゃうところがあるのですが・・・
シカの穴の刺客から芸人たちを救うのは、オセンさんとゆー伝説の“流れモギリ”(なんだよ、流れモギリって?w)の婆さん。この婆さんが浅草寺五重塔から数々の名高座が繰り広げられた往年の落語会のプラチナチケットをもぎって、浅草の空にチケットの半券が舞うのです。そうすると、落語から心が離れてしまった演芸ファンに奇跡が起こる(これがすげー可笑しいの)。
居酒屋で茶碗酒を飲んでいた男。ふと湯呑みを見ると…「あ!湯呑みの中に志ん生が!」「古今亭が泣いている・・・」
いなりずしを食べていた男、いなりずしを半分に割ると「あ!稲荷の中に正蔵が!」「林家が泣いている・・・」
バカバカしい〜(笑)サイコー


春風亭百栄『七つのツボを圧す男』(6/30 30日WA百栄落語会)
近未来、80年代の少年漫画のヒーローだった拳四郎は“指圧マッサージ北斗”の指圧師になっていた(笑)。施術中、お客が世間話で少年マンガの話を持ち出す。すると拳四郎があの抑揚のないクールな口調で尋ねる「80年代のヒーローでは誰が一番好きか?」・・・この新作、浪曲の『石松三十石船道中』のパロディでもあるのです(こういう新作は、名作w『マザコン調べ』にも通じる、百栄師らしい落語って感じがします)。拳四郎=石松なのです。浪曲では人が良くてせっかちな石松が、一生懸命「酒を飲みねぇ」「寿司食いねぇ」っておだてたり、「江戸っ子だってねぇ」「神田の生まれよ!」「そうだってねぇ!」ってかぶさるようにポンポンと威勢のよいやりとりが気持ちいいけど、百栄師はその気持ちいいリズムを、拳四郎のあの抑揚のないクールな口調で全部ハズして殺してるのであった(笑)、で、それがとても可笑しい。
「80年代の少年マンガっていったら、なんといっても少年ジャンプだ!」「一番強いのは、孫悟空」「二番目は筋肉マン」「三番目はペガサス星矢」と次々と80年代ジャンプ看板作品のヒーローをあげていく客を、拳四郎があの低い声とゆっくりとした口調で「お前、酒を飲め」「寿司を食え」とクールにおだてて、なんとか自分の名前を出させようとするのが、すっごく可笑しかった。「うるせぇな、下足の札をもらってんじゃねぇや」「あとのヤツは一山いくらのガリガリ亡者ばっかりだよ」なんてセリフはちゃんとそのまま活かされていて、浪曲ファンも楽しく聴けますよ。ちなみに客の名前は広沢牛造(笑)。


◆その他
※仕事で「いちのすけえん」に行けなかった(泣)。いまだに未練たらたらです。


※29日リビング名人会で家元の『ずっこけ』、『よかちょろ』〜『山崎屋(中)』を聴きました。4月くらいから月1くらいの間隔で家元を見ていますが、不調と好調の“波”があるのだなぁと思いました。この日はお元気であった。ただ、『山崎屋』では「日本橋横山町」が出てこなくて、こういうことはもう避けられないのだろうと思った。


そういう談志を見るのは辛いというファンの方もいらっしゃいます。でも、自分は、家元の体調とか年齢とかを思って割り引いて聞いていたわけじゃなく、また“見守る”というのとも違う、ひじょーにフラットな気持ちで聞いていたのだけど、なんとも言えない、しみじみとしたおかしみがある、いい味の落語だなぁと思いました。『ずっこけ』なんか、酔っ払いも、その面倒をみてやる兄貴も、酔っ払いの女房も、なんだかみんな“しょーがねぇなぁ”という空気の中で喋ったり動いたりしていて、それを観ているとこっちも「あー、しょーがねぇなぁ」と可笑しいようなちょっとだけ悲しいような、さみしいような温かいような、フッと苦く笑ってしまうような、そんな気持ちになった。


家元はよく忠臣蔵を例にとりあげて、落語は、立派に仇討ちを果たした人間じゃなくて、仇討ちがイヤで逃げちゃったヤツらを描くものと言いますが、高座にあがる家元の姿が、もう、まるごと“落語”です。体に悪いと承知で睡眠薬が手放せないことも、言葉を忘れてしまうことも、脚が痛くて座っていられないことも、カッコ悪いところをみんな見せてしまう。でも、そういう姿がイヤじゃない。睡眠薬をやめれば落語がちゃんとできるのに…とか、そういうことも思わない。そんな風にどうしようもなく落語をやってるというのが、人間臭くて、いい。
これが落語だよ、わたしはいま談志の落語を観ているよ。…と思いました。