rakugoオルタナティブvol.5「柳家と立川」



rakugoオルタナティブvol.5「柳家と立川」
7/16(土)18:00〜20:40?(たしか9時近かった気がする)@草月ホール
開口一番 柳家さん弥『夏泥』
立川志らく『らくだ』
柳家さん喬井戸の茶碗
仲入り
座談 さん喬・志らく


さん喬師匠と志らく師匠の対談目当てに行った会です。
志らく師匠は自分の落語論や落語に関わる関心事を独演会のまくら等で話すことがよくあり、落語に関する著書もたくさんあります(ちなみに最近上梓された『落語進化論』では、現時点での志らく師の落語論を知ることができます)。
でも、さん喬師匠は落語論のようなことは高座ではあまりお話しなさらないようだし、そういうお話を聴けるものなら聴きたいと思いました。
柳家立川流、大ベテランと中堅…立場があまりにも違う二人ですから、カタチだけのおざなりな会話になる可能性はあると思ったけれど、幸いそれは杞憂でした。さん喬師匠はかなり率直に考えを話してくださったように感じます(志らく師匠も同様ですが、大先輩との対談ですから、考えを異にすることはあっても反論は控えたところはあったと思います。ご自身も対談のあとTwitterでそうつぶやいてらしたし)。
二人が―特にさん喬師匠が―公の場で落語について語ったということで、この対談は非常に意義深かったと思います。


余談ですが、ここ数年、わたしの落語についての大きな関心事は「落語とはなにか?」「なにが落語で、なにが落語ではないのか?」という"落語の定義"のようなことです。
これは、落語における"粋と野暮""美学"ということにも関わると思います。
なぜ、ただ落語が好きで聴いてるだけの自分がそんなことを考えているのかというと、「立川こしら」という、落語ファン、いやファンだけでなく落語家の中でもおおいに評価が分かれる落語家を好きになってしまったからです(笑)。
いや、自分で笑っちゃったけど、笑いごとではないのです。自分の好きな落語家が「彼のやっているのは落語ではない」などと軽んじられるのは本当に切ないことです(なのに、こしら自身までが、自分の落語を「落語のようなもの」と言ってはばからない。歯がゆい、悲しいw)。
それに、そういう落語家が好きな自分を、落語を知らない軽薄なファンみたいに見ている人も一部にはいるし、甚だ心外であります(たしかに落語をよくは知りませんが、わたしはわたしなりにマジメに落語を愛しているつもりなのです)。
わたしは、三三も白酒も一之輔も好きですが、もし好きなのが彼らのような"王道"と公認されているような若手だけだったら、そこにこしらが混じらなければw、わたしは「落語とはなにか」なんてめんどくさいことを考えることはなかったでしょう。
嗜好の幅が広いばっかりに、手に余る悩みをしょい込むことになりましたw


ともかく、そういうわけで、わたしは「落語とはなにか?」ということがずっと気にかかっているのですが、二人の話はそれを考えるうえで貴重なヒントになりました。
わたしのように「落語とは何か?」が気になる人、また「落語はこれからどうなるか?」ということに関心のある人に、是非聴いてほしかった対談でした。
で、ちゃんと伝える自信はないのですが、ほんのちょっとでも紹介したいな…という気になりまして、あまり時間をかけても忘れそうなので、とり急ぎ書いてみました。
対談を主な話題・テーマごとにまとめたつもりですが、対談の流れそのままではありません。メモのようなもの、とご理解ください。
また、お二人の発言そのままでもありません。
わたしの感想や考えたこともちょっぴり…じゃなくて、だいぶ混じっていますがご容赦ください。




◆「寄席育ち」「立川流育ち」
そもそもこの会は、主催者ぴあの某氏が、さん喬師匠から聞いた話を是非多くの落語ファンにも聞かせたいということで企画されたものだそう。
某氏がさん喬師匠から聞いたことのなかに「最近の立川流には勢いがある」という話があったそうで、"立川流の勢い"とは、志の輔談春志らくが、また最近は談笑も活躍していることを指している。
対談の最初に司会者(担当某氏)に「あの時のお話をぜひ…」と促されたさん喬師匠は、自分は"反立川流"であるけれども…と断ったうえで、次のように語った。


寄席で育つ落語家は、自分の師匠以外に多くの師匠方に仕えなければならない。いろいろな師匠がいろいろなことを言う(寄席で育つ若手は大勢の師匠の厳しい目を意識しなければならない、ということだと思う)。
一方、立川流の落語家は談志ひとりにつくせばいい。談志の言うことだけを聞いていればいい。若手は自由奔放に落語ができる。そこから"勢い"が生まれるのではないか。


これに対して志らく師匠は「とはいえ、寄席のない立川流では"落語家"とは呼べない出来損ないができてしまうことも事実」と、立川流の落語家育成の問題点をあげた。
いわく…
寄席で落語を聴かずに立川流に入門した若手は"落語を聴く耳"ができていない。よほど落語の才能のある人間でないと、立川流できちんと落語ができる落語家になるのは難しい。


立川流のさん喬師匠が現在の立川流の勢いを認め、立川流志らく師匠が立川流の問題点を認めた格好だったが、ともかく、寄席には寄席の、立川流には立川流の、良さと問題があるという話。


とはいえ、さん喬師匠にとっては"寄席"は絶対(それは、この後の話を聞いて感じたこと。さん喬師匠が認める落語家とは"寄席育ち"の落語家であるし、さん喬師匠がその"ご意見"は傾聴に値すると考えている客は"寄席の客"であると、わたしは感じた)。
また、志らく師匠も後日Twitterで次のように呟いている。
立川流は寄席がなく自由にしたから売れっ子の落語家がでたわけではない。それなりの才能のある人間が寄席より談志だと選択し、談志の影響で開花した」
イチローひとりに野球を教わるのと、そこそこの選手百人に教わるのとどっちがいい?談志のもとにいるということはそういうこと」
志らくほど同世代で寄席を愛し、そこに出演することを夢みていた落語家はいない。その私が寄席はなくても落語家は誕生すると言っているのです」


対談の場では、さん喬師匠は「どちらがいいかはお客様がきめること」とまとめたが、わたしは"どちらがいい"ということは決めなくていいと思う。
なにごとも、良いものを生み出す方法は多ければ多いほどよいのだから、それぞれ問題があると分かっている現行システムの二者択一でなくてもよいはず。
他に、より良い方法を考えていけばいいと思う。そう簡単なことではないかもしれないけれど、それでも、二者択一よりよいと思う。


◆「反立川流」「談志」
さん喬師匠が、司会者に「あの時のお話をぜひ…」と促されてまず言ったことは、「わたしは反立川流です」。
この言葉を、さん喬師匠は対談中なんども口にした。
「わたしは小さんの弟子。5代目に操をたててきた。すべてを理解しても反立川流でいなきゃいけないと思ってきた」。


わたし自身は"立場がなによりも大切"とは思わないが、そういう考え方の人たちがいることは分かる。
落語家にとって師匠は絶対、小さんの弟子であるさん喬師匠の「立場」では談志とその一門を肯定することはできないということだと思う。
けれど、さん喬師匠が5代目を想うように、志らく師匠も談志家元を敬愛している。
自分が愛するもの、大切に想うものを、面と向かって否定されるのは辛い。
志らく師匠は、さん喬師匠が繰り返す「わたしは反立川流です」という言葉をどんな気持ちで聞いていたろう…と思うと、わたしは志らく師匠に同情してしまう。


ただ、さん喬師匠は「師匠(5代目小さん)が亡くなってもうじき10年。もうそういう時代ではない」とも言った。
一門の市馬師匠や花緑師匠は以前から志らく師匠と交流があり、一番弟子の喬太郎師匠は志らく師匠と二人会もしている。
世代と共に落語界の各団体・個人の関係も変わりつつあるのが、今。


さん喬師匠は「談志師匠には可愛がってもらった」と、寄席の出ていた頃の家元とのエピソードをいくつか披露した。
自分(さん喬師匠)が二つ目の頃。『真田小僧』をやって戻ってくると、談志師匠から「おい、もっと現代的なくすぐりをやれよ」と言われた。
真田小僧』のまくらには、"懲役ごっこ"をして遊ぶ子どもたちとか、あの辺りのくすぐりが使われる。それが古い、もっと時代に合ったくすぐりをやれと談志師匠は言ったのだろう。
思わず「でも、あれやるとウケるんですよ」と言うと、談志師匠は困った顔をして「そうなんだよなぁ」。


さん喬師匠は談志家元を「真正面に弱い方だった」(恐れず素直に正面からぶつかると怖くない、という意味だと思う)と述懐した。


◆「志らく喬太郎
さん喬師匠は、客から"喬太郎志らくは似ている"と言われたことがあるという。
この日、志らく師匠の『らくだ』を聴いていて「喬太郎もああやるだろうな」と思ったと言った。


志らく師匠と喬太郎師匠は全然似ていないし、それぞれのファン層も異なると思う。
喬太郎師匠の『らくだ』は聞いたことがないが(以前やったことがあっても今はやっていないのではないか?)、志らく師匠とはかなり違うはずだと思う(喬太郎師の『らくだ』は、屑屋か半次のどちらかがとっても暗いとか、どこかにダークなものが入っていそうな気がする)。
でも、「志らく喬太郎が似ている」と言う人が、なにをもって"似ている"と感じるのかはなんとなく分かる気がする。
くすぐりのギャグが同じように聞こえるのではないか。でも、それも実はかなり違うけれど(うまく言えないけれど、志らく師匠のギャグは喬太郎師匠よりもシュールだと思う。また、それだけが違いということでもない)。


◆「落語におけるケレン(外連)」
志らく師匠が、談笑師匠から聞いた話を紹介した。
談笑師匠がある会でさん喬師匠・権太楼師匠と共演した時のこと。楽屋で権太楼師匠がさん喬師匠を相手に「ケレンのある落語はいやだ」という話をしていて、それはきっと自分(談笑師)のことだろうと思った…という話(きっと、そうなんだろうなぁw)。
ケレンのある落語とはどういう落語か?と問われたさん喬師匠は「その場限り、その場がうければいいという考え」でやる落語、「客が望んでいる通りのことをやる」ことと答えた。


この言葉からは、さん喬師匠が考える"ケレン"がどんなものなのか、やや分かりにくい。
もしも、談笑師の落語―キツいギャグや強烈な風刺のようなものが盛りだくさんの落語や、設定を現代に変えた改作落語―のようなものを指しているのなら、そういう落語を一概にケレンというのは違うのではないかと思う。
そういうことをウケ狙いでやっている落語家もいるけれど、談笑師はウケるためではなく、噺本来の魅力やパワーを分かりやすく伝えるために意識的にああいう落語をしているわけだから。
(でも、談笑師の落語がケレンと捉えられがちなのは分かる。表面的には単純なウケ狙いと区別がつきにくい)。
「その場がうければいいという考え」がいけないならば、ウケるからという理由で昔ながらの"懲役ごっこ"のくすぐりをいれるはケレンだろう。でも、それは一見、昔ながらの落語らしい落語(≒本寸法の落語)にも見えるけれど。


落語におけるケレンとはなにか。ケレンのある落語は悪なのか。
このあたりの話は"落語の美学"とか"落語の範囲(どこまでが落語か?)"ということにも関わることで、難しい。いろいろな落語家の"落語の定義"を聞きたい。さん喬師匠の落語の美学も、もう少し詳しく聴きたかった。
でも、これこそ"価値観"の問題だから、ああいう場で話し合うのは難しかったろう。


◆「寄席」
落語協会、芸術協会、立川流、円楽一門。派閥はあっても、所詮落語家は個人の商売だ…という話になり、その話の中でさん喬師匠が「お客様は協会の寄席にいこう、芸協にいこう、と選んでいらっしゃるが、寄席に常時でられる芸人はせいぜい20人」というようなことを言った(すいません、このあたりやや記憶があいまいです)。


この、「客はまず○○(協会、芸協、立川流円楽党)を選ぶ」という意味合いの発言が気になった。
わたしは、どの団体の落語がいいか?というふうには一度も考えたことがないから。聴きたいかどうかは、あくまで落語家"個人"への興味がきめる。その落語家がどこに属しているかなど気にしたことがない。たぶん今はそういう落語ファンが多いのではないか?
落語を聴く"場"も、寄席が最上とは思っていない。もちろん寄席は好きだ、魅力的な顔付けの寄席は本当に楽しいと思うけれど、ライブ感に溢れた一期一会の落語が聴ける場所は、なにも寄席に限らない。独演会でも勉強会でも二人会でも素晴らし落語は聴ける。むしろ、つまらない落語家、嫌いな落語家の噺を我慢して聞かなければならないこともある寄席よりも、独演会のほうがいいとさえ思うこともある。
さん喬師匠は、いつものように「寄席がいちばんです、寄席に来てください」と強く訴えたけれど、どうしても頷くことはできなかった。


さん喬師匠はつくづく"寄席の落語家"なのだと思う。さん喬師匠の落語はあくまで"寄席の落語"で、さん喬師匠に見えている客は"寄席の客"なのだと感じた。
でもわたしは"寄席の客"ではなく、"落語の客"なのだ。そんなわたしでも、さん喬師匠の落語が聴きたくて、一時期はあちこち追いかけていたんだけどなぁ。
わたしみたいな客もいるということを知って欲しい、認めて欲しいと思う。


◆「落語の転換期」
さん喬師匠から「今、落語の転換期を迎えている」という発言があり、談志が死んだら(…お許しください)立川流はどうなるか?という話になった。
志らく師は、立川流は崩壊する、自分はひとりでやっていくであろうという予想(詳しくは志らく師匠の『立川流鎖国論』終章を読んでください)。
続いて、落語はこれからどうなっていくのか?という話へ。
志らく師匠「わたしはまだまだ大丈夫と思っている」。なぜなら「わたしたちの下には、白酒がいる、一之輔がいる。人材がいればなんとかなる」。
さん喬師匠は「それはお客様がきめること」。


何がよい落語で、なにがよくない落語なのか?それが分かる客いる限り、落語の未来はあるだろう。さん喬師匠はそう言っているのだろうと思う。


落語をきちんと評価できる客。そういう客を"通"というのだと思う。けれど、今"通"と呼べる客がどれくらいいるのだろう?
現在は多様な個性の落語家が活躍している、それは豊かで喜ばしいことだ。けれど、そのために、落語の"芯"みたいなもの、落語の美学を踏み外さない"本寸法"(この言葉はあまり使いたくないけれど…)のようなものは、かえって見えにくくなっているのかもしれないとも思う。
ことに21世紀になって落語を聴きだした客、基準が確立していない(基準をもたない)客は、自由にいろいろなタイプの落語をフラットに聴いて楽しめる一方で、迷いやすいと思う(自分がそうなのだ)。
さらに、近頃は、既にその反動がきているような気がする。古典落語を昔ながらにそのままにやる落語を殊更偏重する向きがあるように思う。
そういう状況で、はたして落語は客から正当に評価されるのだろうか。


さん喬師匠は「落語家は一分で、客が九分」とも言った。
その言葉には、客をバカにするな、見下すなという強い自戒が込められているのかもしれない。
けれど、その言葉は「客に委ねる」というふうにも聞こえる。細かいことだけれど、わたしはそういう言い方は適切ではないように思う。
なぜなら"プロ"である落語家にはいつも客の先を行ってほしいから。プロにあっ!と驚かされることを望んでいるから。






あの対談を聞いた方、補足のコメントをぜひお願いします。
もっと上手にブログか何かにまとめてくださった方がいたら、読みたいです、教えてください。
それから、さん喬師匠の発言にいちいち反論しているカタチになってしまいましたが(笑)、まったく他意はありません。
この対談の志らく師匠の感想は師匠のTwitter(@tatekawashiraku)をご覧いただくと詳しくわかると思いますので、ご興味のある方はご覧ください。


本当に、落語とはなんなのでしょうね。
で、わたしは、こんなものがなんで気になるのかなぁ。
じぶんでもよく分からないですよw