志の輔らくご 21世紀は21日 8/21



8/21(木)19:00〜20:55@新宿明治安田生命ホール
志のぽん 『道灌』
志の輔 『隣のけんか』
松元ヒロ パントマイム
志の輔 『もう半分』



志のぽんさんの『道灌』は、後半は、忘れちゃったのかな?というような箇所が所々あって粗筋のような感じがしないでもなかった。
志の輔師は「(志のぽんが)ああいう落語をやるとは知らなかった…」。志のぽんさんは、志の輔師が「覚えたの?そんじゃ、聴いてやろうか?」と稽古をつけてやろうとすると、何故かさしむかいの稽古をこばむんだそーだ。なので志の輔師は志のぽんさんの落語をちゃんと聴いたことがなく「死ぬまでに一回くらいは二人のときにあいつの落語を聴きたい」んだそうです(笑)


マクラはオリンピックの話から。口パク少女はともかく、開会式の花火まで事前に撮っておいた映像をつかっちゃう、“良ければナマでなくてもいい!”ときっぱり判断できる中国って凄い!という話から、テレビの“やらせ”の話。「でも、期待に応えようとすると、そうなっちゃうんでしょうなぁ」…と『隣のけんか』へ。
街頭でテレビ番組「街角実験室・ドキドキキッチン」の取材クルーにつかまってしまった主婦。「サバのミソ煮を作ってください」と頼まれ、パニックになってカツオを掴み(その前に鯛を掴もうとしたw)、皮をはいでゴマをふってフライパンにいれて「カツオのムチャクチャ煮」を作ってしまう。そのVTRが放映されてしまい、番組を観た隣の奥さんが訪れ「奥さん、おいしいわぁー」「ボケるって難しいのよー」と誉めそやす。しかし続いてやってきた実家の母はカンカンに怒っている。パニックで頭が真っ白で倒れそうだったから…と言い訳する主婦に「だったら倒れなさいよ!なんで料理を作り続けるの!」。そこへ姑もやってくる。同じく激怒の姑に、同じく頭真っ白で倒れそうだったと言い訳すると「だったら倒れなさいよ!」(って、姑も同じコト言うのが可笑しかった)。やがて主婦そっちのけで実母と姑がケンカを始め…というお話。


ヒロさんのパントマイムの後は、再びオリンピックの話。選手団に「せいぜい頑張ってください」とコメントした福田首相に、「“せいぜい”とは何事だ!」とかみついた石原都知事。しかし“せいぜい”は本来「力の及ぶ限り」という意味で、この場合、福田首相の用語の使い方はまったく正しい。石原都知事はヤブ蛇だった、作家でありながら言葉の正しい意味を知らなかったということが露呈しちゃって、とんだところで男を下げてしまった…という話から、“言葉”をキーワードにマクラが展開された。
志の輔師は、今日ここへ来る車の中で“渋谷のサル”のニュースをとりあげるフジテレビ「スーパーニュース」を観ていた。代々木公園に逃げ込んだらしいという報告でニュースが終わり、次のニュースに移りしな、安藤優子女史は「サルは何を食べているんでしょう、心配ですね」と明らかにその場しのぎのコメントをした。おそらく番組の進行に追われて、ふと心ここにあらず状態になった女史、心にもない言葉が口をついて出てしまったのだろう(そーゆーのを聞き逃さない志の輔師がすごいわー)、「思ってもない言葉、そういうものが出ちゃうのが人間なんですなぁ」。それから言葉の力(言霊)の話とか「話しているうちに考え方が変わっていく」という話になって、『もう半分』に入った。


『もう半分』の酒屋の夫婦は、志の輔牡丹灯篭』の伴蔵・おみね夫婦だと思いました。つまり、志の輔師は『もう半分』においても“弱さから悪に堕ちていく人間”というものを描いているのであった。


酒屋の亭主は、老人が忘れていった50両を盗ろうなんて、最初は夢にも思っていない。でも、女房の言葉に翻弄され気圧されて、最後には50両を返してくれとすがる老人に50両なんて知らないと言ってしまうのだ。その、亭主の心が変わっていく過程がスリリングで面白かった。
それと、女房が実に利己的で、しかも全然悪びれてなくて、そういう点が実にまったく女らしい。亭主が、老人が忘れた“50両”を届けると言うと、“50両”という言葉に反応して「ちょっと見せておくれよ」と頼む。「凄いねぇ〜」。老人を追って外へ出ようとする亭主を押し留め「もうちょっといいじゃないか、初めて見たんだよ」「50両…。あんなおじいさんが50両もってて、どうしてうちにはないのかねぇ」。うらやむ心から、どんどん自分に都合のいい理屈が生まれる(あー、これが心理学でいうところの“合理化”ねーと思いながら観ていましたw)。「追わなくたっていいよ、50両忘れたんだもの、戻ってくるはずだよ」「でも、戻ってこないじゃないか」「50両とおじいさん、縁がないんじゃないかねぇ」「これ、使ってくださいってことなんじゃないの」。俺だって、道に落ちていた50両ならもらうよ!という亭主に「ここ(酒屋)ももとは道だったんだよ」って凄いよ、この女房は(笑)。最後には、この50両は借りるのだ、そして100両にして返せばいい、という理屈でついに亭主を説き伏せてしまう(この場面を観ていて、『牡丹灯篭』でおみねが幽霊に100両をもらおうと伴蔵を説得するのと同じだなぁーと思ったのです)。


取り乱して戻って来た老人は、亭主に酒をもらうとき、確かに自分の左脇に50両を置いたと言い張る。「返してくれ」とは言わないけど、「頼みます」と泣いて帰ろうとしない。それでも知らないという亭主に老人「あなたの目は“知っている”と言っている、目は知っていると言っている!」。このセリフちょっと怖かった。でも、亭主は老人を追い返してしまう(…で、老人は身投げして死んじゃって…ってことになる)


その後は、もう酒屋の亭主の覚悟は決まって、すっかり女房と同じ人間になっている。女房に燗をつけさせた酒を呑みながら「借りたんだよな、返すんだよな」と言い聞かせる。「こうなっちまったら、早く100両返してやれってことだよな」と早速50両で店を大きくする算段を始める…。いやー、面白い。


この後は、人間の怖さということじゃなく、怪談的に怖かった。
丑三つ時、小さな赤ん坊がすっくと立って、横たわった乳母の口と鼻に小さな右の掌をかざして息をうかがい、眠っているのを確かめて…というところ、想像すると怖くないですか。ちょー怖い。油舐めるところよりずーっと怖い。


終わった後、志の輔師はこの噺を「爽やかじゃない。でも、イヤじゃない」と評した。この噺、「人間のよわーいところを描いている」というのに興味があるんだと、そういうことを言っていました。


終演後のトークで、志の輔師は、家元の体調(元気だそうです)の他、“キャリーケースの迷惑”(旅行先で、ヒトの引っ張ってるキャリーケースに足を轢かれそうになったりぶつかったりして困った…)という話をしたんですが、隣の女性がまさにキャリーケースを膝の前に置いてて、笑っていいかどうか迷いました。