志の輔らくご ひとり大劇場 千秋楽

9/13(木)19:00〜21:45@国立劇場 大劇場
バールのようなもの
八五郎出世せず』
休憩
『政談月の鏡』



今回のチケットを買う前、行くか行かないか、少しだけ悩んだ。国立の大劇場みたいなあんな大きいところで落語聴いて楽しいかな?とちらっと思ったので。でも、やはり行って正解だった。志の輔さんはちゃあんと、この劇場だからできる演出を用意して、しかも「That’s 志の輔らくご」というやつを見せつけて驚かせてくれた。


始まる前。舞台中央に『志の輔らくご ひとり大劇場』と書かれためくりのようなものがポツンと置かれている。背景は真っ暗。開始時刻になると、太鼓や笛が鳴り出し、舞台がゆっくり時計回りに廻りだした。明るくまぶしい高座が現れ正面でピタッと止まる。『梅は咲いたか』にのって下手から志の輔さんが登場。大きな拍手。
こんな演出で開始早々客席を喜ばせた。


予想通り、導入は安部サン退陣の話。ちょっとした冗談にやたら沸いて拍手が起こり、志の輔さんが拍手が静まるのを待ったりする場面があった。みんなワクワクして気持ちがはやってるんだなぁと感じた。もちろん私だってワクワクはしてるのですが、「静まれ静まれ、どうどう…」と客席をなだめたい気がした。


バールのようなもの ずいぶん前の新作で最近はあまりやってなかったようだ。私は初めて聴いた。“モノ知りなヒトに教わったとおりにやってみたんだけど、うまくいきませんでした”という古典落語の典型的なパターンにのっとったお話。「泥棒が“バールのようなもの”でシャッターをこじあけて宝石店に侵入した」というニュースを聴いて、“バールのようなもの”という表現に疑問を感じた大工さん、ご隠居に、“バールのようなもの”ってナンです?要するにバールでしょ?と尋ねる。ご隠居いわく、“バールのようなもの”はバールではない!何故ならば、“女のような”といったら女じゃない(男)、“ハワイのような”といったハワイじゃない(「熱海だ!」だって)、“夢のような”といったら夢じゃない(ステキな現実)…と例証をあげていく。すっかり感心した大工さん、浮気がバレて奥さんに「あの女は妾でしょ!」と問い詰められ、「違う!妾じゃない!“妾のようなもの”だ!」(笑)。ご隠居に習った理屈は奥さんに通じなかったと泣きながら訴える大工さんに、ご隠居は「一つ言い忘れたんだが、“妾”だけは例外」。“のようなもの”をつけると「妾だけは、意味が強まる」って言うのが可笑しかった。古典落語のパターンをとりながら、そこにニュースの常套句を笑うという現代的な視線があるところとか、大工とご隠居さんの問答のセンスの良い可笑しさとか、志の輔らくごの一面が端的に現れている作品と思う。軽く楽しい噺で、一席目に相応しかった。ひとしきり笑って客席も落ち着いたみたい。


一席目を終えて志の輔さんが下手に去ると、お囃子の音が聞こえて舞台が廻りだした。廻り舞台の上には、いつも志の輔らくごの出囃子をなさってる松永鉄九郎さんらが。しばし三味線・太鼓の演奏を楽しんだ後、再び舞台が廻る。高座には深くお辞儀の姿勢で既に志の輔さんがいた。


志の輔さんは下町のヒトからこんな話を聞いた。子供の頃はよくお遣いに行かされた。ある時、「お饅頭を15個買っといで」と言われて菓子屋さんに行くと、ちょうどぴったり15個残っていた。他にお饅頭を買いに来たお客さんがいるわけではない、店だって売り切れて困るわけではないのだが、自分がそこにある15個を全部買ってしまうことにためらいがあって、2個だけ残して13個買って帰った。母親も13個しか買わなかったことを、別に咎めはしなかった。下町のヒトのそういう振る舞いを志の輔さんは「いいな」と思う。全部買わずにちょっとだけ残す、それによって誰かがお饅頭を食べられる、お饅頭のおいしさを味わえる人が増える…15個全部買うことのためらいには、無意識にそういう気持ちが含まれていたのではないか。“最低必要なものだけあればいい”とか“ちょっとした幸せを人と分け合う”とか、そういう感性が、昔の日本人にはあった…。
そんなマクラからはいった八五郎出世せず』 ついに意味不明のまま提唱者がいなくなってしまった「美しい国ニッポン」構想。この噺では、志の輔さんの考える“美しい国”とか“美しい日本人”というのを提示する…という意図もあったのかもしれない。マクラって、噺の世界観というかテーマみたいなものの方向指示器みたいな役割があると思うのですが、志の輔さんのマクラはいつも“これからお聞かせするのは、こんな話ですよ““こんな気持ちで聴いてくださいね”というのを明示してくれると感じる。
この噺、古典落語の『妾馬』を志の輔さんが独自にアレンジしたもの。本来の『妾馬』では、八五郎は、殿様の側室となってお世とり(=お世継ぎ)を産んだ妹・つるのおかげで武士に出世するが、志の輔版『妾馬』では、八五郎は「士分にとりたててやる」という殿様の誘いを断る。『妾馬』の八五郎は、棚ボタで出世しちゃいましたーというだけの男だが、志の輔版の八五郎は、一見、教育のない口の悪い愚かな男のようで、実はしっかりと庶民の哲学をもった、つつましくさっぱりと生きる魅力的な男だ。噺の冒頭、八五郎と大家さんの会話がとても面白くて笑わされるのだが、笑いながら八五郎というキャラクターに親近感を覚え惹かれてゆく。大家が、侍にとりたててもらえるかもしれないと言うと「裃つけて、二本(刀)差して、その上、道具箱はかつげねぇ」とか、褒美をやると書いた巻物をくれるかもしれないと言うと「しまいのほうに、小さーい字で“1年後に返済”とか書いてあるんじゃねえの?殿様は利子どれくらいとるんだ?」とかとか、大家の言うことをいちいちふざけ倒しながら、実に恬淡としている。
この噺、前回聴いたのは5月の朝日名人会だった。比較的最近聞いたので、くすぐりやセリフを結構覚えていて、あぁ次はこんなこと言うんだよな、次のセリフはこうだった…と聞いていた。次に言うことが分かっても、それでも笑っちゃうのだ。分かってることを言ってくれるのが楽しいというか。ホリイさんは志の輔さんを「同じ噺を繰り返し聞いてもまた聞きたくなるという点で傑出している」と評していたが、改めてその通りだと思った。
好きなところがいっぱいあります。
大家さんから、殿様が『屋敷に来い』と言っていると聞いた八五郎が、呼びつけられたことが癪に障って「ふん、何様だよ」って言って、大家が「殿様だよ!」って返すところ。
屋敷について、家来の田中三太夫に広い屋敷を案内されながら、八五郎が「こっちは、へーや・へーや・へーや(部屋)、こっちは、にーわ・にーわ・にーわ(庭)」って節をつけていうところ(このセリフでお屋敷の長ーい廊下が浮かんでくる)。
あっち曲がりこっちに曲がりを繰り返し、帰り道が分からなると思った八五郎が「角角におしっこしていい?」って三太夫に聞くところ。とかとか…
楽しい笑いの多い噺だが、殿様の屋敷で酒を振舞われた八五郎が、豪快な呑みっぷりで次第に酔っていきながら、妹のつるに、母親からの伝言を伝える場面では、笑いながらじーんとする。初孫が生まれたと大喜びしていた老母が、実は、その初孫をその手に抱けないことを泣いていたと、八五郎は明かす。「お世とりって哀しいね」という母親のセリフに胸をうたれる。母親も一緒に連れて屋敷に来ればいいという殿様に、八五郎が言うセリフも好きだ。「殿さまー、お袋はね、“井戸端”がないと生きていけないの。わかります?い・ど・ば・た」。井戸はお屋敷にもあるかもしれないが、ただ井戸があればいいのではない、その周りを「ジジ・ババ・ジジ・ババ・ジジ・ババ…」が取り巻いてるのが井戸端。長屋の人たちが一緒にいないと母親は生きていけないのだ、と。私の周囲には、このあたりで、鼻をすするヒトやそっと涙をふいたりするヒトが少なからずいらした。
こういう人情噺も、志の輔らくごらしい。


バールのようなもの』『八五郎出世せず』、ここまででも充分志の輔らくごの魅力が味わえて、志の輔ファンにも落語が初めての人にもとても楽しいプログラムだったと思う。でも、これだけじゃなかった。志の輔さんがこういう大劇場でやるんだから、当然といえば当然なんだけど、常にファンの予想を超えるっていうところが素晴らしい。『政談月の鏡』は、「落語はどこまでエンターテインメントになりうるか?」ということに挑戦し続ける志の輔さんらしい、さすが!の舞台だった。


「9月7日というのは、私にとっては意味のある日付で、この日から『24 シーズンVI』のレンタル開始なのです」。志の輔師は『24』が大変お好きらしい。『24』は、主人公ジャック・バウアー、彼の妻子、大統領候補、その側近等々主要な登場人物の24時間が同時並行で描かれていき、その複数のストーリーを追いながら“真犯人は誰か?”という謎が明かされていくわけだが、志の輔師はこういうサスペンスは落語と合わないとおっしゃる。なぜなら、多くの落語はそもそも仕込み(犯罪のトリックにあたる)のシーンを観客が観ていて、その仕込みがうまくいくかどうかを笑うものだからだそう。例えば『ちりとてちん』。たまたまあった腐った豆腐を、「これを知ったかぶりのタケさんに食べさせたらどうなるだろう?」と考えたご隠居が、唐辛子だのなんだのを混ぜて「台湾の珍味」に仕立てる。それをタケさんにすすめる。するとタケさんが予想どおり食べる…という一部始終を、観客は全て知っていて、その上で時にご隠居の気持ちになったり、時にタケさんの気持ちになって笑う。それが落語。
ところで、今回のライブをやることになって、志の輔さんはまた圓朝全集を読んでいた(ライブをやる時は必ず圓朝を読むそうです)。そこで目に留まったのが『政談月の鏡』。これは口演の記録がないらしい。その理由は、志の輔師いわく“面白くないし、ワケが分からない”から。しかし、志の輔師は「圓朝は落語でサスペンスをやろうとしたのではないか?」と思ったという。それでこの会で「サスペンスと落語」というテーマでやってみようと思ったのだそうだ。「面白くないのでもう二度とやらないかもしれない」「つまらないかもしれないが、どうかお付き合い下さい」とおっしゃる。もう二度とやらないかもしれないものを観られるんだから、ラッキーではないか。嬉しくなった。


志の輔版『政談月の鏡』は…


<シーン1>
浪人・清左衛門と娘・お絹(原作では「お筆」らしい)が暮らす長屋。ある晩、大家の金兵衛が清左衛門の弟・園八郎から預かったお金を届けに来る。屋敷づとめをしている園八郎は、貧しく暮らす兄を心配して金を届けたのだ。清左衛門もかつてその屋敷に勤めていたが、重役と言い争いをして浪人となった。清左衛門は金は受け取れないと断り、弟にはあの屋敷を出て欲しい、あの屋敷にはよからぬことがある…とつぶやく。
<シーン2>
小間物屋。夜遅く、その前を主従らしき二人の侍が通りかかる。主人に命じられ、従者の侍が半紙を求めに小間物屋に入る。店を営むのは喜助・お梅夫婦。店じまいをしかけていたので、代金は次に通りかかった時にもらえばいいと半紙を渡す。従者からその話を聞くと「金はいつでもよいという心がけが良い、礼の代わりにこの酒をとらせろ」と、主人は酒のはいったひょうたんを渡す。従者は言われたとおり、喜助に酒を渡して店を出る。二人が去った後、喜んで酒を呑んだ喜助。呑んだ途端に喜助は苦しみだし、あっけなく死んでしまう。その頃、路地を歩いている二人の侍。主人は月を見上げてつぶやく。「よい月じゃのう。…この月を見る者もあり、見ぬ者もあり」
<シーン3>
大家・金兵衛の家。そこにお絹が訪ねてくる。子供のいない大家夫妻はお絹を養女にしたいと思って可愛がっており、お絹は内儀から一緒に湯に行こうと誘われたのだ。内儀とお絹は連れ立って湯に出かける。
<シーン4>
小間物屋。喜助に毒入りの酒を与えた侍の人相書が作られ、北町奉行が捜査を始めるが、侍の行方はようとして知れない。ただ一人、侍の顔を見ているお梅は、自分の手で下手人をあげたいと考え、人が集まる場所・吉原の女郎になって下手人探しをしようと決意する。
<シーン5>
清左衛門宅に大家が飛び込んでくる。大家は、お湯屋でお絹が口入屋のおトラ婆さんの財布を盗んだ濡れ衣を着せれらたと告げる。どうやらこれはおトラ婆さんが仕組んだことらしい。役人が来て騒ぎになり、お絹はどこかへ逃げ出してしまったと言う。茫然とする清左衛門。


…こんな風に次々にシーンが切り替わっていく。各シーンの内容は、ごくかいつまんだもので、志の輔さんはこういう内容を登場人物のダイアローグで描いています(落語だから、当然ですが)。登場人物も、ここに書いたのは主要な人物だけで、他にも役人とか名前もない野次馬とか、いろんなキャラクターが登場する。
こういうたくさんの登場人物を演じ分けて、混乱をきたさない志の輔師の力量はさすがだ。
喜助に毒入りの酒を与えた侍は、何者?お絹は何故こんなことに?清左衛門の弟が仕えている、なんだかよからぬ屋敷って何?…そんな疑問で興味がいや増す。
次は、誰が登場するどんなシーンなのか…


と、突然、舞台が暗転。志の輔師が沈黙。廻り舞台の仕切りになっている白い壁に、デジタル表示の時刻と、町人髷の男、侍、町娘が、『24』でおなじみのあの四分割画面で映し出された!例の効果音も緊迫感を煽る!客席が大いに沸いて、拍手が起こった。
この映像は、著作権侵害の問題のなさそうな古い映像から、それらしいシーンを集めて編集したらしい。いやー!楽しい!
この後も、次々にシーンが変わり、時折、この『24』っぽい映像がはさまれるというやり方で展開していった。
主要な登場人物それぞれのストーリーを並行して見せるというのは、まさに『24』、四分割映像を大劇場の背景に映画のように映し出すというのも、すごく楽しい。うーむ、志の輔さん、こんなことするかぁ!と嬉しくなった。


この後のストーリーは書きませんが(観たい人もいるかもしれないので)、ま、圓朝らしい“それはあんまりにも都合よすぎだー”という偶然でコトは運び、謎や犯人は比較的すぐ分かっちゃう。ちなみに、タイトルに「政談」がついてるのは、この話の謎解き役(2時間ドラマの最後に、ずらっと登場人物が並んだ前で、縷々、事件の経緯を説明する船越英一郎みたいなヒト)が、北町奉行の依田豊前守だから。ともかく、そういう細かいことはさておいて面白かった。落語でこんなことが、テレビドラマやお芝居みたいなことができる、それを観ているということが楽しい!と思った。圓朝の原作を昨日まで私はまったく知らなくて、これを書くために登場人物の名前を確認するんで、ググってちらっと読んだ程度だが、圓朝の作品は、志の輔師がおっしゃるとおり、相当長くてつまらなそうだ。これを、こんな風に組み立て直した志の輔師はホントに凄い。


私は、好き・嫌いを超えて、凄い!楽しい!としか思わなかったが(ま、それが「好き」ってことか…)、志の輔コミュ、いくつかのブログや日記を見てみたら、この作品の好悪は結構分かれるみたいだ。聴き手にある程度集中力を要求するこの噺は、のほほんとリラックスして落語を聴きたい人には、辛いのかもしれない。でも、こういう落語があっていいと私は思う。この『政談月の鏡』や、下北沢の『牡丹灯篭』、お正月パルコの『歓喜の唄』などは、普通の(…というか、“従来の”というか…)落語と比べて評価するものではないと思う。志の輔らくごの中でも特殊なものだと思う。落語と思うから、違和感があるんじゃないか?


志の輔師は、「面白くないのでもう二度とやらないかもしれない」とおっしゃっていたが、コレきりなんてもったいない。


その場にいた人たちだけしか共有できない“何か”があるのが「ライブ」というもので、ライブに行くっていうのは現代における贅沢の一つだと思う。志の輔さんの独演会というのは、そういう贅沢を堪能できるところだ。いつも「あー今日来てよかった!来れなかった人可哀そう」と思う。今回もそう思いました。