二月後半の落語



2/15(月)下北沢らくご二夜 3人SWA
2/16(火)下北沢らくご二夜 昇太の日
※下北沢らくご二夜のことは前回のブログに書いたので興味のある方はそちらをご覧下さい。


2/18(木)巣鴨四丁目落語会 夜の部
19:00〜21:40@studio FOUR
志の春『鮑熨斗』
志らら『宮戸川
志の輔雛鍔
仲入り
マグナム小林 バイオリン漫談
志の輔『猫忠』


2/20(土)落語×オペラ 柳家喬太郎『錦の舞衣』
17:00〜19:28@ティアラこうとう小ホール
開口一番 小太郎『動物園』
喬太郎『名人くらべ 錦の舞衣』前編 
仲入り
生野やよい(ソプラノ歌手) オペラ『トスカ』より『歌に生き愛に生き』
喬太郎『名人くらべ 錦の舞衣』後編


2/21(日)桂宗助・桂吉坊二人会 夜の部
17:00〜19:24@らくごカフェ
宗助・吉坊 トーク
宗助『ちしゃ医者』
吉坊『抜け雀』
仲入り
宗助『蔵丁稚』


2/26(金)真一文字の会
19:30〜21:24@日暮里サニーホール
『黄金の大黒』
『堪忍袋』
仲入り
明烏


2/28(日)特選落語会 柳家喬太郎の会
18:50〜21:40@日本橋社会教育会館8階ホール
小んぶ『初天神
小太郎『粗忽の釘
喬太郎 長いマクラ&『転宅』
コラーゲンはいごうまん 漫談『僕の細道 ヤクザ篇』
仲入り
喬太郎 『文七元結




こうして振り返ると二月後半はなかなか充実してた。聴いた落語はどれも良かったです。下北沢落語二夜は楽しかったし、志の輔師の『猫忠』、喬太郎師の『錦の舞衣』を聴けてラッキーだった(『猫忠』を聴いたのは3年前の朝日名人会以来。自分はライブではなかなか出会えない落語でした。『錦の舞衣』は初めて。そう頻繁にはやらないみたい)。初めて聴いた桂宗助師匠も良かったし(ちょっと古風だけど好ましい)、一之輔さんも面白かった(三席とも面白かった、自分がいちばん笑ったのは『黄金の大黒』でした)。
そんな中で最も印象が強いのは喬太郎師の『文七元結です。今回はその感想をちょっと書いてみるです。


わたしは喬太郎さんの文七を聴いたのは今回が初めてだった。
喬太郎さんの文七は、オーソドックスなのとオリジナルバージョン(こういう言い方でいいのかな?…ま、とりあえず)の両方あるみたいですね。昨年暮れの鎌倉「圓朝の人情噺を聴く会」では、圓朝に敬意を表するということだったのでしょうか、普通の文七をやったと聞きました。今回わたしが聴いた後者のバージョンは、長兵衛が佐野槌の女将に借りた50両で借金を返し、その後働きに働いて50両を貯め、1年後の大晦日に女将に返しに行く。その途中、吾妻橋で身投げしようとしている文七を見かけ、宝のような50両を与えてしまう…というものでした。若干、端折った部分もあったみたい。この日はたぶん主催者から文七をやってくれと頼まれてて、時間が押してたこともあってこっちのバージョンでやったのでは?と推察しております。


博打の誘惑を振り切って、一年間働きに働いて50両を貯めた長兵衛は、文七を、死んではいけない働いて50両貯めて返せばいい、きっとできると諭す。「生きてるといいことあるぞ。その気になってなんかやろうと思えばできるぞ」「俺な、返したヤツ知ってんだ。だからなんとかなるぜ」


しかし、文七は「自分は奉公人です、職人なら50両貯められるかもしれません、でも奉公人の給金ではムリです」「あなたは奉公したことがないでしょう?だから分からないんです」と泣く。
この理屈に、一言も返せない長兵衛。そして、懐の50両を抱えて心がぐらぐらと揺れ始める。そして苦しい逡巡の果て、ついに長兵衛は文七に50両をたたきつけるのだった。


からかわないでくれ、もし本当だとしても見ず知らずのあなたから大金をいただくいわれがないという文七に、長兵衛はこの金がどんな金かを聞かせる。そんな金なら余計にもらえないと言われると、「今、娘に言われたんだよ!あたしはいいから、その人にあげてって!」「明日っから女郎になんだい!でも、死なねぇんだい!」


「自分ができたんだからお前もできる」という長兵衛の理屈も、職人とお店ものは違うという文七の理屈も、どちらもよく分かる。思わずつりこまれるような説得力がある。でも、理屈だけではなく、喬太郎師の人物の感情の描き方、表現が素晴らしいのだった。だから、もの凄く引き込まれるのだと思いました。


主人と番頭が文七を叱る場面も良かった。
文七から事情を聴いた主人は、文七に命じる「(長兵衛の財布を)持ちなさい」「おまえ、その金の重さを覚えておきなさい」。このセリフ、カッコ良かった。


最後の場面もいいんだな。
長兵衛は50両が出てきたこと、文七が死なずにすんだことに安堵するが「でも、すまねぇけど、おまえのツラ見たくねぇんだ。帰ってくれ」「そそっかしいのは愛嬌と限らねぇぜ。お前の粗忽で娘が一人女郎になったんだ!」
長兵衛は主人が差し出した50両を受け取ろうとしない。何故ならもう娘は女郎になってしまって今さら金を返されても仕方ないから。今になって金を受け取れとは「皮肉だなぁ、旦那」。


“いったん懐から出た金だからもういらない”という理屈よりも、「大事なのは金じゃない、娘だ。でもその娘がもどらない以上、金なんかなんの役にも立たない、だからいらない」という理屈のほうが、わたしは“江戸っ子”らしい気がして腑に落ちた。




ところで、ネットで多くの落語ファンのこの『文七元結』についての感想や意見を拝読しました。「(古典)落語らしくない」という感想があって、あぁそんな風に感じる人もいるのかと興味深かった。


自分は、ある時から“落語がどうあるべきか?”というようなことは言わないようにしようと決めました。落語がどうあるべきかを考えて決めるのは落語家だと思うから。
わたしの周りにいる、今の落語をライブで観ているお客さんの中からは、時々「それはあえて落語でやることか?」「それならコントでも演劇でもいいのではないか?」というような声が聞こえてきて、それを聞くと、言われてみれば確かにどうなんだろう…と考えてしまうことはあります。でも自分は、自分の心に響く、心を震わせてくれる高座だったら、どんな落語でも肯定したいと思ったです。この日の喬太郎さんの『文七元結』には間違いなく心を打たれた。自分はそういう落語家の落語にお金を払いたい。


いろんな落語ファンが、それぞれの価値基準で今の落語を評価して、自分がいいと思った落語家のライブに行けばいいと思います。そういう客の動き(身も蓋もないことを言えば“どこにお金が落ちているか”)を見て、落語家がどんな落語をやるかを決めていけばいいと思います。お金が落ちない処は、結局は文化として残らないと思う。
わたしとしては、自分がいいと思ってる落語家がこれからも活躍してくれることを、いつまでもその高座をライブで観られることを祈るのみです。