立川談志一門会 2009/2/23



2/23(月)19:00〜21:35@練馬文化センター大ホール
立川談修『長短』 踊り「茄子とかぼちゃ」
立川談笑『薄型テレビ算』
柳亭市馬『堪忍袋』
仲入り
松元ヒロ スタンダップコメディ
立川談志『つるつる』



昨年の暮れ、館林の『へっつい幽霊』を観た落友の皆様から「家元復帰!」の朗報を聞き、来年はまた談志の落語をライブで聞けるんだなぁと嬉しく思ったものでした。家元の落語を聴くのは久しぶり。この日を心待ちにしていた。
前に家元の『つるつる』を聞いたのは、2007年12月の三鷹だった。
昨夜の『つるつる』は、いわゆる“イリュージョン”の域には達していなかったと思うが、難なく一席やり通したという印象。一昨年の三鷹で観た時は、落語がどうこうというより鬱々とした様子が気になったが、この日の家元は、自分がこの一年くらいの間に見た中でいちばん落ち着いて機嫌が良かったような気がします。静かに意欲に充ちて高座に居るという風で、そういう姿を観られて良かった。


お目当ての家元まで、ソツなく楽しくつないでいく一門(…市馬師匠とヒロさんはもはやほとんど一門かw)の連携も気持ちよかった。
特に印象的だったのは談笑師の高座。


自分は談笑師の月例には行ったことがなくて、「白い談笑」しか知らない客だけど、そんなわたしでも(そんなわたしだからw)何度も聞いている『薄型テレビ算』。それが今回はとても面白くて、初めて聞くみたいに新鮮に笑えた。
古典の『壷算』を現代に舞台をうつした改作。現代版では、買い物上手なアニキは、瓶ではなくて薄型テレビをまんまと騙し取る。カモにされるのは秋葉原の小さな電気店(先祖は瓶なんかを商う瀬戸物屋だったw)。こうした設定や個人経営の電気店の商売の仕組みなんかの説明がリアルで、「在庫を抱えたくない」「目先の現金が欲しい」という零細企業の経営者ゆえの弱みにつけこんだトリックがよくよく考えられていて面白い。しかも古典の『壷算』のフォーマットをきちんと踏まえているのが心憎い。
談笑師の落語は設定が細かくて理屈に隙がない。「頭のいい人が好きな落語」という気がする。ただ、頭脳明晰でないわたしなんかは、一生懸命聴いていないと分からなくなることもあって、ちょっと疲れる落語ではあった。
でも、今回の『薄型テレビ算』は、理屈に感心する・理屈が面白いっていうこと以上に、“追い込まれておかしくなっていくヒト(電気屋の社長)”の心理が表情・セリフ・仕草からよく分かり、そのサマに笑えた。わたしは、『壷算』という落語の要諦は、この“追い込まれておかしくなっていく”人間の可笑しさ、それを嗤う残酷だと思うのですが(だから、ココをがっちりおさえてデフォルメして笑わせる昇太師の『壷算』は大好き)、そこがよく描けていたから新鮮に笑えたんだと思います。改めて今年は談笑師をもっと聴きたいなぁと思った。来月は『芝浜』目当てで「談笑傑作選」に行く予定なんだが、ますます楽しみになった。


さて、家元の高座。
大きな拍手に迎えられて座布団に座った家元は無言でジェスチャーを始めた。喉の手術の説明とか小噺をやってるんだなと分かったけど、ちゃんと解読できませんでしたw 
最近、誰もがマクラでふれる中川前財務相の話。二日酔いで沖縄開発庁政務次官を辞任した人のコメントは重みがあるなぁ(笑)。いつものようにジョークをいくつか経て『つるつる』へ。中川サンの話は“酒でのしくじり”の噺のマクラってことだったのかしらね。


近年の家元の落語を絵に喩えると“抽象化の度合いが高い墨画”とでもいうんでしょうか、つまり、噺として成立する・聴き手が理解できるギリギリのところまでセリフ、仕草、地の語りをそぎ落として、余計なものが一切ない、余白が美しい絵のような落語って気がする。
今回の『つるつる』もそういう感じ。必要最低限のシーンをつないだような落語なんだけど、骨の髄まで幇間根性がしみついた一八の滑稽と悲哀、そのエッセンスだけが伝わってくるようだった。
こういうのって落語ビギナーには分かりにくいのだと思います。わたしが談志落語を聴きだしたのはここ2〜3年ですが、初めてライブで聴いたときは、おもしろいもつまらないもなくて、ただ分からなかった。今回も、わずかな動きで上下を分けるせいか、喋っているのが一八なのか旦那なのか分かりづらいところがあったりした。でも『つるつる』を飽きるほど聴いてる人にはそんなことはないんだろうなぁ。ただ、分からない時、「わかんないや」とあっさり切り捨てられるものと、分かるまでしがみつきたいと思うものがあって、立川談志の落語は後者なのだった(なので聴きに行ってるんだけど)。
それと、家元の落語は、落語と今風の入れごと、落語から脱線した雑談・ジョークとの“継ぎ目”が極めて曖昧で自然なところが卓抜していて、そこに味があるように思います。昨日の『つるつる』では少なかったけど、たとえば、夜中の2時になったら芸者・小梅の部屋にしのんでいくという約束をした一八が「時計がチン・チンと鳴ったらツーッと行きますから。チン・チン・ツーですから」って言って、「ソーホーに陳々通(※当て字ですから、間違ってもご自分のブログにコピペしないでください)って上手い中華料理屋がありましてね…落語に飽きたって表現です」「なんでもおやんなさい」などというやりとりがあって、またふいっと噺に戻っていく。落語の空気を壊さずに流れるように自在にこっちとあっちを行き来するというのか、こういうのを“継ぎ目がない”と感じるのです。上手くいえませんが。談春師や喬太郎師も、落語とふと頭にうかんだ雑念を面白おかしく行きつ戻りつすることがあるが、彼らの場合は“段差”が激しい気がする。聞いててガックン!てなる感じ。面白いときは面白いんだけど、あざといと思うときもある。


家元『つるつる』は終わり方が優しい。小梅との約束を果たせなくて泣いている一八を、旦那が酒を飲ませたのは自分だからと言い訳してやる、きっと許してくれる、それでグズグズ言うような女じゃないって慰める。この終わり方は希望があって気持ちいいな。
サゲは文楽師匠の「井戸替えの夢を見ました」じゃなくて、旦那に一緒に謝ってやるからお前も頭を剃れって言われた一八が「昨夜半分剃って十円もらっときゃよかった」。
…以上、昨日の『つるつる』を聴いて思ったりしたことを書いてみました。全然実況的じゃなくて申し訳ないです。


ひとつ残念だったこと。
『つるつる』の途中で大きな音(車のロックをムリに外した時に鳴る警報音みたいな)がして、噺が中断されてしまったこと。家元は「…コレなんの音だろうね?」と一旦噺をやめ、しかし、慌てず騒がず小噺で会場を笑わせて和ませた後ちゃんと噺に戻った。
だけど、その後また着メロを鳴らしたヤツがいた。マナーモードの携帯のバイブ音が延々と続いたりもした。
こういう輩がどうしても絶えないなら、「上演中携帯鳴らしたら罰金」とかいう罰則を設けてくれてもいいと思った。嫌なことだけど、でも、あんな幻滅を味わうくらいならそれを我慢してもいいやとまで思った。今はわりと穏やかに書いておりますけどね、昨夜は「鳴らしたヤツ、いますぐ死になさい」と憤怒に燃えていた。そういう人、少なくなかったと思います。