志らくのピン 11/11



11/11(火)19:00〜21:23@内幸町ホール
開口一番 志ら乃 『崇徳院

※以下志らく
『元犬』 
『宿屋の富』
仲入り
『芝浜』



志らく師の『元犬』は初見。落語の友人たちから、犬のシロが人間に変身するシーンが『ヴァンパイア』の逆バージョンみたいっていうのと、描かれる犬の生態がリアルで面白いっていうのを聞いていた。なるほど、元犬・シロは人間になってもあくまで犬らしく、観ていて「そうそう、犬ってこうだよなぁ」と笑っちゃう『元犬』だった。志らく師匠、今日はマクラで、自分は動物が嫌いだけど奥さんが好きなので犬とネコを飼っている、犬が主人に愛想ふりまく様といったらまるで幇間みたい…という話をなさったが、そんな日頃のペット観察が見事に活かされているように思いましたw


シロの変身シーン。にわかに空がかき曇り、雨が降り風がびゅうびゅう吹いてきて、シロはブルブル震えだす。体の毛が激しい風に吹き飛ばされるように抜けて、人間に変わるシロ(一緒に観た志らくファンの友人達の話によると、今日はこの変身シーンは、ややあっさりだったみたい)。
人間になってもシロは相変わらずヘッヘッ・ハッハッと舌を出して口呼吸をしている。通りかかった上総屋の旦那に、自分はいつもエサをもらってるシロです!と飛びついて、そのカオを舐めまわす(笑)。上総屋は驚くんだけど、カオを舐められて「…ヤな気がしないね」っていうのが可笑しかった。目を見せてごらん、お手!とやって、なるほどシロだ!と納得した上総屋は、シロを「知り合いの日本橋の呉服屋の若旦那」「勘当された上、追いはぎにあって困ってる」ということにして家に連れ帰り、奉公先を世話してやろうとする(上総屋がシロを“元犬”と承知しているというのは、わたしは志らくさんが初めてです)。出した食事を箸をつかわず、まさに犬食いするシロを見て驚く奥さんに、「(追いはぎにあって)気が動転してるから…」と言いつくろう上総屋さん。この後、シロが犬まるだしの振る舞いをするたびに「気が動転してるから」って言い訳するが、言い訳してやらなきゃならない場面が度重なって、しまいには弱ってオイオイと泣きだしたのが可愛いかった。
上総屋がシロを奉公先に連れて行く途中、シロがネコに吠え掛かる場面がありますが、志らく版・シロは…「ウー!ワンワン!…キャイン、キャイーン(泣)」ってネコに負けて戻ってくる、それが楽しかった。
奉公先の旦那サマは、紹介されたシロを、わざと変わった振る舞いをしてるんじゃないか?と疑っているのだが、しばらくすると、舌を出してヨダレを垂らしているシロの姿に、不思議と「心がなごみますな」と雇う気になっちゃう。犬って人をしてそういう気持ちにさせますね、確かに(笑)。サゲは「おおい、モトはいるか?」「イルカじゃなくて、もとはイヌです」。


この前『宿屋の富』を観たのは、この夏のシネマ落語でした。その時とちょっと違うなと感じたのは、当たりの番号の発表を待って大勢がワイワイやってる境内のシーン。二番富を当てる!って決めてる男の妄想(500両を細かくして仲へ繰り出して、馴染みの女郎を身請けする。朝起きるとお膳に天ぷらと刺身とうなぎが並んでて、女とやったりとったりしてるうちに「お前さん寝ましょうよ」ってなって寝ちゃう、それで朝起きるとお膳に天ぷらと刺身とうなぎが並んでて…って繰り返す、あれです)は、前観た時は、志らくさんはもっと押してた気がするけど、今回はそうでもなくて、やり方もよく聴くオーソドックスな感じ(志ん朝師匠のやり方だそうです)に近くなっていた。この男、二番富に外れたと分かった瞬間にパーン!と爆発してバラバラになっちゃうのですが、今日は、後でお金持ちになりすました男が神社にやってくると、爆発した男の唇がプルップルップルッ…ってまだ宙を飛んでたっていうのがたまりませんでした。その画を想像したら、可笑しくてw


ところで。
落語を聴きはじめて間がない人間(わたしみたいな)は、基本的には自分にとって「面白い」(※この場合の“面白い”は“笑える”ということに限らず、泣けたり怖かったりということも含めて、印象的で心惹かれるというような意味)かどうかで落語を評価すればよくて、「この人の落語は、落語らしいかどうか(≒落語の美学にはずれていないかどうか)?」というようなことはあんまり考えなくてもいいんじゃないかなぁと思います。というか、評価のモノサシをまだ持たない人間には、そもそもそういうことは分からないです。ただ、いろんな落語家のいろんな落語を聴いて、“落語の美学”とか“落語美学に基づく表現の仕方”“表現の幅(ここまでは壊していいけど、ここは変えちゃいけないというような許容範囲…っていうんでしょうか?)”というのはどうやら一様ではなく、落語家によって様々らしいと分かりました。また、様々なのは落語家だけじゃなく、落語評論家も客もそうで、だから初心者は、いろんな落語評論を読んだり通の話を聴いたりするたびにいちいち混乱するのであった。混乱を避けるためにいちばんいいのは、演者本人の落語美学(≒落語観)を心得て聴くということじゃないかと思う。だから是非それを知りたいのだけど、自分の落語観をきちんと語ろうとする落語家・語れる落語家というのは少ないみたい。落語そのものから推察するしかないのですが、それは初心者にはとても難しい。で、わたしが志らくのピンが好きなのは、志らく師が自分が考えるところの“落語”やそれを現実に作り上げるための方法論をマクラやパンフレットで分かりやすく伝えようとしてくれるからです。落語家がそういうことを語るのは野暮だという考え方があるのも承知しているけど、それを求めるわたしのような客もいて、そういう人間には実にありがたく嬉しい。それに、落語をちゃんと分かりやすく解説できるというのは才能であります。


閑話休題
志らく師は『芝浜』を“落語の美学からはずれた噺”と捉えているそうです。パンフレットには、志らく師が考えるところの“落語らしい『芝浜』”について「主人公の魚屋が、改心してその後の人生を平穏に暮らしましたとさ、と感じる『芝浜』なら失敗です。落語ですよ。駄目な亭主と馬鹿な女房の噺でなきゃ。この二人は再度失敗をすると匂わせないと」と書いていらした。それを踏まえて聴いたのですが、志らく師が言う“落語の美学”とはどういうものか、それを『芝浜』という落語の場合はどのように具現化(表現)しようとしているか、そのアプローチがちょっと分かったような気がして、とても面白かったです。


志らく『芝浜』で、他の(普通の)『芝浜』と違ってて、且つとっても魅力を感じた部分の筆頭は「魚勝の女房」です。志らく師は“馬鹿な女房”にしようと試みたわけですが、この女房はたしかに、ある意味馬鹿だと思いました。でも、馬鹿だけどとても可愛い女のヒトだ。


42両を拾ってもう働かなくてもいい!と喜ぶ亭主を見て、女房は「このままじゃ、このヒトはダメになる」とか「このヒトにそんな罪を犯させてはいけない」とかいう理屈で42両を拾ったことを夢にしてしまう…というのがフツウの『芝浜』ですが、志らくさんの女房の行動はそういう正論から起こされたものではないのであった(笑)。
「カネができたから魚屋はやめる!」という亭主に、女房は「商いはどうすんだい?魚屋が魚屋やめちゃったら、ワケわかんないよ…」と困惑する。魚勝は「なんで商いするんだ?金が欲しいからじゃないか?金はあるんだよ!」だから、もう魚屋稼業をする必要はない…と説得する。「そりゃ理屈はそうだけどさ、あたし、魚屋だからお前さんと一緒になったんだもん」。そう、この女房は機嫌よく魚屋をやってる亭主が好きで「亭主が自分が好きな男でなくなってしまうのがイヤ!」っていう、ただそれだけの理由で亭主を騙すのだ。見終わった後、落友の「この女房は、志らくさんの『子別れ』のおみつと同じ」という指摘に、なるほど!と思いました。ともかく、そういう行動の仕方って、利己的というか感情的というか、古典的な女らしさのような気がする。
ラストの大晦日のシーン、女房は泣きながら言う。3年前42両を拾ってきた日、酔っ払って寝てしまった亭主の寝顔は嬉しそうだった、でも自分には怖いように見えた。「こんなおっかないカオしたヒトとこの先連れ添うのか…」と思ったら、たまらなく不安になった。「お前さんが魚屋じゃなくなっちゃう、ただのイヤなヒトになっちゃう」…そう思ったらたまらなくなって、財布を抱えて外に飛び出し、偶然出会った大家に夢中で全てを話してしまった、そうして大家の指図に従って財布を拾ったことを夢にしたのだ…と打ち明ける。
その後の場面。
魚勝は「おっかあ。この銭は拾ったもんじゃねぇ。夢だ。今日までオレに尽くしてくれたお前のモンだ。お前の小遣いだ」「ありがとう」と感謝する。
女房「お前さん、ずっと魚屋でいる?」
魚勝「うん、足腰がたたなくなるまで魚屋をやるよ」
女房は「じゃ、お酒飲む?」と亭主に勧め、飲んで仕事を休んだっていいよと言う。
魚勝「ずーっと休んでていいのか?」
女房「いいよ、あたしお小遣いがあるもの」
・・・この部分を聴いて、なるほどこの女房は賢くもないし、しっかりしてもいないなぁと思った。でも、なんだか可愛いな。共感を呼ぶってことでは、ここで「あたしが店をやるよ!」って言う、談春『芝浜』の強い女房のほうがリアルで、広く好まれるのかもしれない。でも、志らくさんの描き方は、ままごとみたいに生きてる夫婦って感じがして夢物語みたいで、そこが落語の世界らしいなと思った。


“落語らしい『芝浜』”にするための工夫かなと思ったのは、例えば、談志『芝浜』では、女房が二度目に(財布を拾った後)魚勝を起こすところで、しばらくためらってから意を決して亭主を起こすけど(文左衛門師もそうやってる)、志らくさんはそうせずにあっさりと亭主を起こした。ためらいを見せるのは、亭主を騙したくない…という気持ちの表現だけど、聴き手に過剰に感情移入させないようにしなかったのかなと思った。
それから、笑いをけっこう挟んでいたのも落語らしさを意図してのことかなと思う。朝、亭主を魚河岸へ送り出す女房がカチカチ!って切り火をするんだけど、亭主の顔近くで石を打ち合わせるので火花が飛び、魚勝は「アチチッ!」って驚く。二度目には、魚勝「あ!これも夢であった!」(笑)。女房が財布を拾ったのは夢!と押しきってしまう場面、「五合飲んで、酔っ払って寝ちまって、お前に起こされて…」「お湯行ったろ?」のリズミカルな繰り返し、大晦日の晩、二人が、昔は返すお金がなくって「死んだフリ」をしたねぇって思い出すっていう『掛取り』の一場面をいれてたところ、こういうあたりが楽しかった。
なお、志らく『芝浜』は大筋は家元バージョンなので、夫婦がしみじみと除夜の鐘を聴く場面がありますが、「ひゃくやっつ」「そう、ひゃくやっつ…」はなかった。「ベロベロになっちゃえ!」も(これらのセリフはどーしても談志『芝浜』を思いだしちゃうから、ないほうがいいと思います)。サゲは通常パターン通り、夢になるといけないから飲むのをよすというものでした。


それにしても志らくさんの落語に出てくる女の人って可愛いな。個人的には、とても些細なところですが、女房が魚勝に騙していたことを打ち明けようとするところで「あの、どうしようかなぁ」って躊躇する様子とか、「話をしたいことがあるの」って最初からもう泣き声なところとか、「お前さん、ずっと魚屋でいる?」って尋ねるところが特に可愛くて、印象に残りました。