【たまには本】この落語家を聴け! いま、観ておきたい噺家51人



ひょっとして、まだ読んでいない・そのうち借りて読もう…という人がいたら「ソッコー買って読んでちょうだい!」と言いたいのです。というわけで、遅まきながら『この落語家を聴け!いま、観ておきたい噺家51人』(広瀬和生 著)について。


著者の広瀬さんは落語つながりの知人です。
広瀬さんはほとんど毎日どこかの落語会に・寄席に足を運んでいて、そのライブレポート&レビューを日記にしている。ネット上でそれを読むことは、わたしの日々のささやかな、いや、かなり大きな楽しみのひとつになっている。


自分もライブで観た落語について記録を残していて、その一部をこのブログに転載しています。そういうことをするのは、その日観た高座・落語のことを後々の自分のために覚えておきたいということと、素晴らしかったライブは自分と同じ落語好きにその楽しさをおすそ分けしたいからで、たぶん、落語ブロガーは、そういう気持ちを多少なりとももっているんじゃないかと思う。でも、残念ながら、そういう所期の目的をきちんと達成しているブログはとても少ない。ほとんどないと言っていいかもしれない(もちろん、このブログを含めて)。


ネット上には落語について書かれた数多のブログが公開されていて、その多くは書き手の感想や批評にとどまり、“その会で落語家はその噺をどう演ったのか?”ということの詳細はあまり書かれていない。それは、自分自身で書いているから分かるけど、ひとつには、そういうことを書くのは面倒だし難しいからだ。そもそも書く以前に、ライブで聴いた落語を、運びからフレーズのディテールから、詳細に覚えていること自体が困難だ。だから聴きながらメモをとったりするわけだけど、ライブに行くっていうのは、その場の空気や熱を含めて二度と再現できない高座を見届けたいからこそで、メモをとるっていうのはとってる本人にも実は邪魔くさい行為だ。かといってメモとらないと見事なくらい忘れるのよね、確実に。で、一生懸命メモをとってると「いったいわたしは何のためにここに来たのかしら?」と情けなくなる…ともかく、落語ライブを記憶し詳細に書くという作業は、まことに難しい。


でも、難しいけれどその作業はなかなか諦められない。また、人様の書くものについてもそれを求めずにいられない。だって「面白かった」「つまらなかった」という印象だけ書かれたものは、やっぱり何の役にも立たないからだ。なぜそう思ったのか?という理由、そういう印象を生じさせた要素や要因が書かれてないものは、納得感がないしつまらない。そりゃ、ライブを観た人には伝わるかもしれないけど、観てない人に「面白かったよ」って言っただけで、いったいどれだけのことが伝わるだろう?後に自分で読んでも「この時、なにが、こんなに面白かったんだろう?」と首をかしげること必至だ。だから、いちばん大切な自分のためにも、そういうことを書いておかなきゃいけないんだよなぁ。


…というようなことをつらつらと思っていた頃、人に紹介されて広瀬さんのブログを読んだ。
初めてそれを読んだ時の衝撃は忘れられない。
それは自分も行ったライブのレポートで、読みながら「そうだった!こんなステキなフレーズがあった」「そう!ここで大笑いしたんだった」…と、その時の高座がありありと蘇った。だが、広瀬さんの日記が素晴らしいのは、ライブの詳細な記録であるというだけでなく、解説にもなっているということだ。それがまた、実にロジカルで分かりやすい。読みながら「なるほど、そういう工夫があったからこういう印象を受けたんだなぁ」とか、「そうそう、私が“いい!”と思ったことはそういうことなの!」と思わず膝を打つようなことばかりで、あぁ、わたしが読みたかった落語レビューってこういうものなんだ!とたいそう嬉しく、同時に、こんな凄いものを書く人がいるんだ!と吃驚したのを覚えている(それから「もう、このヒトの日記があれば、わたしは自分で苦労して書かなくていいかも…」と不届きなことも考えました、正直言うとw)。


広瀬さんがそういうモノを書けることには、長年落語を聴き続けてきて蓄積された豊かな落語の教養(…というコトバはあまり落語に使いたくないけど、適当な言葉が思い浮かばないので、とりあえず使います)と、ご自身のお仕事(音楽誌『BURRN!』の編集長をされてます)で培ってきたスキルやノウハウがあることは無論だが、それだけでああいうモノは書けないだろうと思う。どうやら落語を聴き・観ている時の広瀬さんの集中力には並々ならぬものがあるようで、もちろんメモもとっているのだけど、おおよそは“頭に入っている(≒覚えている)”んだろう思う。時々、落語会の帰り道が一緒になることがあって、そんなある時「覚えてるんですよね?」と尋ねてみたことがあります。広瀬さんは、覚えているともいないとも言わなかったが「(ライブレビューを)早く書かないと忘れちゃうんですよね」と言った。つまり、書くまでは頭に入ってるってことなんじゃないかしら。うーむ、やっぱ非凡な人なんだなぁ…と思ったことであった。


それともうひとつ、広瀬さんは本当に落語が好きで、落語と落語家に深い愛情をお持ちだ。そして「自分がいいと思ったものを人にも伝えたい」という気持ちが強いのだと思う。だから、広瀬さんの文章を読むと「この落語家の高座を観たい!」という気持ちを激しく駆り立てられる。たぶん、落語家自身が説明するよりも、的確且つ魅力的にその落語家の良さを伝えられる人だ。


広瀬さんの日記のおかげで、ビギナーのわたしの落語ライフはとっても充実した。「広瀬さんがそんなに面白いって言うヒトなら、もっと聴いてみよう」と追いかけて、どんどん好きになった落語家はたくさんいる(たとえば、橘家文左衛門師匠はそういう落語家のひとりです)。それから、あまり好みではない噺や落語家も、こういう視点で聴くと面白い…ということも分かって、楽しみ方がぐんと広がった。


そんな素敵な日記を日々タダで読んでいるわたしだが、でも、広瀬さんの文章はお金を払っても読みたいもので、数多のブログの雑文とは一線を画していると思っている(タダで読んでるからあんまり説得力がないけど、ホントです)。なので、広瀬さんにはことあるごとに「どうかこれを本にしてください」とお願いしていた。それで出版されたのがこの本です…って言えたらカッコいいが、それはウソですw。わたしなんかかがアレコレ言う前に、広瀬さんはとっくにこの本の構想を固めておられ、日々、あのボリュームたっぷりの日記を書きつつ着々と執筆を進めていたのであった。そんな広瀬さんに度々「本書いてくださいよ〜」なんて言っていた自分が恥ずかしい。ただ、広瀬さんには「茜さんのように言ってくれる人がいて、絶対こういう本の需要はあるはずだ!って確信がもてたんですよ」と言っていただいたことがあって、それはホントに嬉しいことだった。


(…と長々と前口上のようなことを書いてきましたが、ここからようやく本の紹介ですw)知人のひとりがこの本を評して“イマの東京落語の最強のガイドブック”と言ったが、まさにその通りで、この本、まずは“実用的”です。
例えば、これから東京の落語を聴いてみたいと思っている人はこれを参考に落語を聴き始めればいい。今、東京にはどんな落語家たちがいて、東京の落語界ってどうなっているのか、お金を払って聴くに値する落語家は誰なのか、その落語家の魅力ってどういうところなのか…そういうことがよ〜く分かります。これを読んで面白そうだなって思った人が出演する会や寄席に、手始めに行けばいいです。そうやって、是非とも効率的に落語を楽しんでください。


既にそれぞれの楽しみ方で落語に親しんでいる落語好き・通家の方にとっても役に立ちますよ。わたしなどは、自分が行った、そしてもう一度観たいなぁと思う高座についての箇所を何度も読んだりしております。わたしは昨年9月紀伊國屋の落語Live三人衆で聴いた談春師の『子別れ(下)』がとても好きなのだけど、談春師がまたあれと同じ『子別れ(下)』をやってくれるかどうかわかんないので、あの『子別れ(下)』を思い出すよすがはいまのところ広瀬さんのレポートしかないのだ。


それから、個人的には、この本の価値は実用ということを超えて、東京の落語界のリアル(本当)をありのままに書いているというところにあると思っています。東京の落語ファンの中には、マスコミで喧伝される“落語ブーム”や、その“立役者”とされるヒトたちの取り上げ方等々について、違和感がある人が少なくないと思う。そういう人はこの本を読んで、よくぞ言ってくれた!と快哉を叫んだはずだ。
それは、広瀬さんの立場だからこそできたことかもしれない。でも、こういう本を書いた人は今までいなかった。“初めて”ということはそれだけで値打ちだ。どんなフィールドでも、先駆者は賞賛されていいと思うのです。
わたしはこの本を読んだ時、失礼な言い方だが「広瀬さんは伊達にヘヴィメタなヒトをやってるわけじゃないんだなぁ」と思った(ごめんなさい、広瀬さん!)。この本、ロックな魂を感じる落語評論なのです。


もし、これを読んで、ちょっとでも興味を持っていただけたら、是非、買ってください。めでたく重版になったと聞いたが、わたしを含め、広瀬さんの周りにいる人間の多くは、こういう本をずっと待っていて、そしてこういう本はもっと売れるはずだと思っています。