立川談志・談春 親子会 in 歌舞伎座



6/28(土)18:00〜20:35@歌舞伎座
立川談春 『慶安太平記 善達の旅立ち』
立川談志 ジョーク&『やかん』
仲入り
立川談春 『芝浜』





家元は、声は相変わらずだったが、この日は喉以上に体調が良くないようだった。
出番を終えると後を談春師に任せ、一足先に会場を後にしたそうだ。
残念なことだったが予想された成り行きではあった。
そして、後を託された談春師が最後にやったのは『芝浜』だった。


『芝浜』は昨年の暮れに家元が“落語の神が降りたかのような”名演をみせたネタ(悔しいことに、わたしは観逃した)。だが、その『芝浜』を最後に“(自分の中から)談志が消えた”と、最近の家元はあちこちで発言していて、この会のパンフレットにもそう書いていた。
毎度おなじみの自嘲ではある(だいたい、今年の二月にやった『天災』も素晴らしかったと聴くし…)。この日は運悪く体調のサイクルの底だったのかもしれない。ただ、今回はいつもに増して弱音が多かった。ドキッとしたのは「…弱ったな。頭おかしくなっちゃった」とつぶやいた後、楽屋に向かって言ったこんな冗談。「代演頼むぞ、志ん朝どうした!」
志ん朝師匠が入院した時、代演をつとめたのが家元。高座から客席に向かって「志ん朝の代演をできるのは、俺だけです」と静かに語ったというのは、落語ファン歴浅いわたしでも知っている有名な話。こういう冗談に無邪気に笑えないような、この日の家元の姿だった。


ともかく、そんな家元が、ほんの半年前に凄い高座をみせつけた『芝浜』を、談春師はトリネタに選んだ。
わたしは昨年暮れの談春師の『芝浜』も聞き逃しているので、『芝浜』と分かった時は「やった!」と躍り上がったが、同時に「『芝浜』をやるのか?」と驚いてもいた。
今考えてみれば、ああいう大舞台でああいう状況だったら、談志の弟子であり“平成の名人”の期待高い談春師であれば、『芝浜』をやるのは当然という気もする。でもあの時は、すごい度胸だなぁと思った。
談春師は家元から“伝統を守るもの”つまり“志ん朝のようであれ”と命じられたというが、ふと、さっきの「志ん朝どうした!」を談春師はどう聴いたろう…と思った。プレッシャーはないのか。当然あるだろう。でも、やるんだ。談春師ならやるな…。
嬉しさと、なんだか凄いことが始まろうとしている…という緊張感で、『芝浜』が始まってしばらくはなんともいえない気持ちでいた気がする。談春師の勝公が芝の浜で煙管を吸う場面。ふと気がつくと、会場がしぃーんとしていた瞬間があって、静か過ぎて我に返った。わたしもそうだったけど、あの時、みんなが息をつめるようにして観ていたんじゃないかと思う。


さて
いったん『芝浜』のことは置いて、オープニングから思い出して書いてみる。


幕があがると、高座の後ろの襖一面に薄緑色で描かれた大小の三蓋松が目を惹く。なんとも美しく、ついでに“お金かかってる”感たっぷりw
師弟二人は並んでお辞儀の姿勢でせり上がりから登場し、割れんばかりの拍手で迎えられた。
談志師匠は、この時点ではそれほど調子が悪いようには見えなかった。いつものように、体調が思うようでないことや声がでないことを詫びながら談春師とトーク、やがて“キン○マ”“拉致太り”といったワードを口走り始めw、それを潮に談春師が「師匠、そろそろ…」と促して退場した。


すぐに談春師が再登場。
今回は師弟による『慶安太平記』と『三軒長屋』のリレー落語の予定だった。わたしは、正直、たぶんどちらも聴けないだろう、高座の立川談志を観られるだけでも僥倖と思っていたが、予想通り、談春師は家元の体調があまり良くなくプログラムは白紙で、一席目はとりあえず『慶安太平記』をやる…と説明した。
その後歌舞伎座にまつわる思い出。24年前の前座時代、この近辺の会場へ行くのに道に迷った。電話で兄弟子に「どこにいる?」と尋ねられた談春師、歌舞伎座の建物を見ながら「わかりません!大きな銭湯が見えます!」。歌舞伎座を銭湯と間違えた少年が、そこで師匠と親子会をするなんてね。当人でなくても感慨ひとしお。


「(師匠の)カッコイイ芸が憧れでありまして」「『慶安太平記はそういうものの一つです」。談春師はこの噺を「難しいわりにつまらない」と評したが、それを面白く聴かせてくれるのは、今、談春師だけではないか。聴くたびに、カラッと豪快な悪党達のキャラクターと談春師のキレのいい口調が相俟って、実にカッコいいなぁと思う。知ってるストーリーなのに、聴いてるうちにワクワクしてくる。特に、宇津之谷峠で善達と十兵衛が正体を明かして斬りあいを始めるところは、どんどんアップテンポになっていって、ワクワク感がいや増す。いつも終わってしまうのが惜しくなる。
この日の『慶安太平記』は、いれごとはほとんどなく、ただキャラクターのセリフ(不機嫌に子供みたいに「ヤダ!」って言う善達、盗む公金の半分をよこせという善達に十兵衛がいうセリフ「こりゃ、おめぇ、ほそくねぇな!」とか、「うわはははは!」って笑い方とか…)とメロディから楽しさが伝わってくるような感じ。談春師の語りは額にいれて飾っておきたいくらいの見事さだった。


家元は花道から登場。
わたしがいた席からはまったく見えなくて残念だった。
「よくここまでたどりついたという状況なんです」「花道から出てくる芸人じゃないね」
談志師匠が普段から言っているようなことだけれど、いつものジョークを披露した後『やかん』にはいったあたりから、今日はホントに体はかなり厳しい状態で気持ちも弱っているのでは…と感じた。『やかん』は志らく師との親子会でもやったが、その時よりも精彩を欠いていたように思う。“志ん朝に代演”ジョークにもドキッとしたが、言い間違えにもハラハラした(“湖と沼”を“池と沼”と言ってみたり…)。
「“いまどうやってしゃべってんの?”“冷や汗びっしょり”」
「頭おかしくなっちゃって…」
“鰻のかば焼”の話で『やかん』をおしまいにし、客席に「ごめんなさいね」と謝って、せめてもう少しジョークでも…とジョークを思い出そうとする。でも、なかなか出てこなかった。「舞台で芸人が困ってるの観てるのはどんな気持ちですか?」
しばらくジョーク混じりの話を続けて、最後は“女房に何をやってもかなわない男”(とばしっこ)のジョークで終了。
どうか気力と体力が戻ることを祈るばかりだ。


そして仲入り後。
マクラもふらずに始めた『芝浜』
談春師はそもそも果敢に噺を進化させていくヒトだし、家元の昨年暮れの名演も観ているのだから、この日の『芝浜』はいままでの談春『芝浜』と変わってるはずだと思う。去年の暮れ、家元の『芝浜』も談春師の『芝浜』も見逃した私は、残念ながらどう変わっていたのか分からないが。
昨年観た方から、談春『芝浜』は“ラブラブモード全開”の“笑いと涙のラブストーリー”と聞いていたが、なるほど独り者には目の毒というくらい“ラブラブ”であった。ただ、初見の印象は、“笑い”というよりは“照れくさいほど素直に好きあってる夫婦の姿に、温かい幸福感が胸に広がってくる”…という感じだった。


夫婦は仲良しで、その関係は、冒頭の「商いに行っとくれ」「行きたくない」で夫婦がもめるシーンですぐ分かる。女房は必死で懇願している風でなく「いい加減、働いてくれないと弱っちゃうよ」と困ってる感じ。勝つもまた、ちょっと厳しく言われて「それじゃ行くよ」と言うんだが、すぐに「(まだ)酔ってるよ」だからいかなくていいだろ?と甘えかかる。すると女房は「酔ってなくて河岸行ったことあんの!」と怒って“みせる”(なんかもう、最初っからこの夫婦はじゃれあってて、シャクにさわるね!と思った)。
勝は、基本的に単純で女房の言うことを聞く素直な男だ。女房に叱られて河岸へ出かけるところなんか、比較的おとなしく天秤棒をかついで出かけようとする。こういうところからも芯から怠けものじゃないじゃん、いいヤツじゃん…と思う。しかし、一歩外に出ただけで「さむい〜〜」とヘタれる(そのセリフ・談春師の表情がちょっと可愛い)。いいヤツなんだけど、つい怠け心がおきてしまう甘えん坊な性格なのだ。
酒飲みで甘えん坊なところが玉に瑕だけど、単純で根はいいやつなので、女房は彼を愛してて彼の甘えを許している。そういう関係みたいだ。


そんな「二人でずーっとそうやってれば」みたいな状況が、勝が42両入った財布を拾ったことから危うくなる。「もう働かなくてすむ!」と喜んでいる勝。このままではホントの怠け者になる、それよりなにより打ち首になってしまう…と危惧した女房は“財布を拾ったのは夢”と言いくるめる。残った借金の山におびえ、勝は借金を返す算段は一切女房に任せる代わりに、自分は酒をやめとにかく一生懸命働く!と宣言する。
こうして勝は一生懸命働きだすのだが、談春師は「この男は根っこは変わっていないのであります。よほど借金が怖かったのでしょう。我を振り返ってみても…(笑)」と言ったが、勝は談春師が投影されたキャラクターなんだろうなと思った。


勝が夢中で働きだしたおかげで、夫婦は貧乏を脱出して人並みの暮らしを得る。もともと好きあってる夫婦で、なんとか暮らしがたつようになったんだから、女房はしあわせをかみしめる日々。ただ、自分のウソを素直に信じて、一生懸命働いている夫の姿にチクッと心が痛むのだ。


財布を拾って3年後、店を構えた夫婦が大晦日の晩を迎えるシーン。
しあわせだという女房に、勝五郎は、まだ幸せじゃない、今は並だ、お前は今までが酷すぎたと言う。そして来年は「びっくりして座りションベンしてバカになっちゃうというようなしあわせを、オレがお前に届けようという…覚悟しろ!」と照れ笑いしながら言い放つのだった。


一生懸命はたらいて、なお、もっともっと幸せにしてやると笑っている男。その単純さ、その優しさが愛しくてたまらない。そんな男を、彼のためとはいえ騙してきたことに女房は耐え切れなくなってしまう。そして、泣きながら打ち明けてしまう。


談春師の女房の泣き方は可愛かった。ほろほろと涙をこぼし、今までどんな気持ちだったかを一生懸命勝に伝える女房は少女のようで、可憐だなぁと思った。
「おまえさん、一生懸命働いてくれた。馬車馬のように働いて働いて…あたし今でも思い出すことあるよ」
風邪をひいて寝ている自分を、起きなくていいと労わって、凍てつく冬の朝、河岸へ出かけていく夫。
「おまえさんの背中に雪が降ってた…」
ここのところのセリフは、いろんな人がいろんな言い回しをしているが、私はここが一番泣けてしまう。談春師の女房のセリフは、戸口で振り返ってニコっと女房に笑いかける勝が浮かんで胸が熱くなった。


女房の告白に、勝は「…分かったよ」と言い、許すも何もオレが悪かったと謝る。昨年の家元のここのやり方は、許されて勝と別れないで済むと安堵した女房が号泣する…というものだそうだが、談春師の夫婦は「許す」「許さない」とじゃれあってるようなもので、なんとも照れくさいほどのラブラブモードに突入する。


女房に酒をすすめられて勝は大喜び。「呑まないうちから開くよ、胸襟を!」ってセリフに笑った。女房に「お前も呑め」とすすめ、女房が「三々九度みたい…」と言うと、おおいに照れて「トキの声でもあげて呑め!」
まったくもーなんなんだ、この二人は!でも、実に羨ましい。


どんなに甘えても許してくれる女房がいるというのは、おそらく男性の夢かもしれないが、女性にとっても男からここまで愛されるというのは夢ではないだろうか。
談春師の『芝浜』は、「こうだったらいいなぁ」と思うような、夢のような夫婦の噺だった。


最初は、固唾をのんで見守るようにして観ていたが、最後はとにかく温かい気持ちで胸がいっぱいになった。あの緊張感の中で高座をつとめ、幸せな気持ちにしてくれた談春師に心から賞賛を贈りたい。


『芝浜』を終えて、談春師はこう言った。
「ご期待に添える形でなかったことは重々承知しております」
「でも、いろんな意味で記憶に残る会だったと思います」
「家元にとっても、いい会だったと信じています」


力強い言葉だったけれど、心の中で談春師はなにを思っていたのかなぁと思う。わたしはこの時、遠くから談春師の姿を見ながら、月並みな言い方だけど、談志を、志ん朝を継ぐ者というのは大変だなぁ、背負うものはどれほどの重みだろう…なんてことを考えていた。
でも、当の談春師は「根が利口ですからね」なんて不敵に笑って、軽やかに名人ロードを快進撃していきそうな気もする。


もう少し時間が経てば、本人が、またいろんな関係者が、この日のことを語ってくれるだろう。そうしたら、この会の意味合いははっきりするだろう。ともかくこの日のことが“記憶に残る”ことは間違いない。