志らくのピン 古典落語篇 6/2





6/2(月)19:00〜?(時計見るの忘れました。たぶん21時を過ぎてました)@内幸町ホール
開口一番
志らべ 『二人旅』

※以下、すべて志らく
『青菜』
『佃祭り』
仲入り
『柳田格之進』



先月の18日にさん喬師匠の『柳田格之進』を聴いて、その印象がいまだ強く残っている。今日はそれと志らく師の『柳田〜』を比べて聴いて、とても面白かった。
さん喬師と志らく師の『柳田〜』は、結びこそまったく違うが、噺の運びやセリフはかなり似ていた(わたしは志らく師の『柳田〜』を聴くのはこれが初めてだったが、何度か聴いている知人たちの話によると、今回の『柳田〜』は以前とは違っていたという)。にもかかわらず、印象は全然違った。お二人のこの噺の捉え方の違いが如実に表れているなぁと思った。(※追記:知人から、志らく師とさん喬師の『柳田〜』は馬生師匠のものを踏まえたものではないか?と教えてもらいました。)



講談の『柳田堪忍袋』は、志ん生師匠、馬生師匠、そして志ん朝師匠がやるようになってやる人が増えた噺だが“陰惨”で“マヌケ”な噺。柳田格之進というヒトは人間がカタイ、カタ過ぎるとこういう悲劇を招いしまう…と噺を始める前に志らく師は語った。“陰惨な噺”という言葉は、終わった後でもう一度口にした。志らくさんはこの噺があんまり好きじゃないのかなと思った。


さん喬師匠は、この噺を“柳田の娘と番頭が結婚し、やがて柳田の家督を継ぐ子供ができたことで、娘の心は雪解けを迎えた”…として結ぶ、また、そんなイヤな結末が救いに感じられるくらい、この噺をちゃんとした悲劇にしている。“美化”の姿勢が徹底してる。
一方志らくさんは、視線が冷めている。気持ちそのまま、“陰惨でマヌケな噺”として届く。
こんなことになったのは“意志が弱かったから”と嘆きあう柳田と万兵衛(※さん喬師匠は“善衛門”だった)の前に、番頭が「どっちの石(意志)が強いか、ひとつ勝負したら」と新しい碁盤を差し出す…とおちゃらけて終わらせる(志らくさんは、終わった後「二人が夫婦になるのが、どうしてもイヤだった」と言っていた)。また、二人の男の描き方も皮肉だ。万兵衛に柳田のことを“わたしの大切な友”と言わせているが、二人の間にあるのは“友情”ではない…と感じさせる描き方だ。万兵衛は柳田のことを、口では「お侍は(50両を盗むような)そんなことはしない」と言いながら、「もし、50両をお持ち帰りになったんだったら、それでもいいんだよ」と言う。その言い方からは、融通がきかないばっかりに貧乏くじをひいている柳田を見下しているような“金持ちの傲慢”を感じる。万兵衛は、たまたま碁の実力の伯仲した柳田に興味をもち、金持ちらしい気まぐれで親切にしてやる気になったのだろう…そんな印象を受ける。柳田は「浪人の身で商家に出入りはできない」「浪人の身で酒をいただくわけにはいかない」と拒むが、万兵衛はそんな柳田をいともたやすく自宅に招き、酒のもてなしをうけさせてしまう。そのやり方が実に世慣れている。こんな世間擦れした金持ちには50両なんてはした金なのだ、だからそこらに置きっぱなしにしてカンタンに忘れてしまうのだ。そのせいでクソマジメな貧乏浪人が腹を切ろうとして、それをとめた娘が吉原に身売りするハメになるんだから、ホントにバカバカしい、マヌケな噺だ・・・
そういう見方は志らく師らしいと思った。
わたしは、その人らしさが落語にどうしようもなく表れている…というのが好きなので、その意味で、志らく師の『柳田〜』は面白かった。


ただ、さん喬師匠の、“男の友情”“悲劇”でだーーっと押し通してしまう「力強さ」は、今夜の『柳田〜』にはなかった。志らく師はいま、この噺と“格闘中”なのかなと思いました(※それとも、馬生師のやり方がこういう感じなのですかね?)。


今日のパンフレットには「…今回の芝居(※注:志らくさんのお芝居『あした』のことです)のテーマが『狂気の世界』。狂気とファンタジーの融合を考えている。だから今日はそのテーマをそのまま落語にとりいれます。」という一文があったので、今日の落語のどのあたりが“狂気とファンタジーの融合”だったのかなぁ?と考えた。ひょっとして、『青菜』が“狂気”(旦那さんのマネをする植木屋さんが狂気担当)で、『佃祭り』が“ファンタジー”(次郎兵衛が佃島で過ごした時間は、ちょっと“異空間へのタイムスリップ”って感じがしないでもない)…?って気がするのだけど、よく分かりません。