国立演芸場 5月中席 5/18



5/18(日)12:45〜16:28@国立演芸場
開口一番 柳亭一朗 『子ほめ』
柳家喬四郎 『金明竹
笑組 漫才
入船亭扇好 『七段目』
柳家小菊 俗曲
金原亭駒三 『居候』
仲入り
伊藤夢楽 奇術
桂ひな太郎 『代書屋』
林家二楽 紙切り
柳家さん喬 『柳田格之進』





さん喬師匠の『柳田格之進』を聴くために行った番組。
期待通り。この『柳田格之進』は好きだ。


まず、江州浪人・柳田格之進と両替商・万屋善衛門の友情がうつくしい。
「君子交淡如水」という言葉を思い出す。お互いの生活に立ち入らず、好きな碁だけを通じて緩やかにつながる二人。大人の友情はこうありたいなぁ。
さん喬師は、善衛門邸の庭の離れにおける静かな対局の様を、四季の美しさと併せて描く。
二人が友情を育み始めた五月の頃。
「池の真ん中にある離れに碁盤の支度をいたします。三方を開け放した離れに、風がさぁーっと吹き抜けます」
「言わず語らず、二人はただ、ピシッ・ピシッ…と石を置いてまいります」
やがて日が暮れ、女中が離れに灯をいれる。時間が経つのも忘れて、碁に熱中する二人の姿が浮かぶ。碁の実力においても人間性においても、互いに認め合える友を得た二人の男の幸福感が伝わるシーン。


二人の友情と幸福感は胸にしみる。だから、50両がなくなり、柳田を疑った番頭の行動を知った時の、善衛門の悲しみ・怒りが、よく分かる。
疑いをうけて、あの誇り高い柳田が自分(善衛門)を許すはずはない、これで自分たちの友情は失われたのだ…。善衛門はそう思った。
「バカーーッ!」番頭を大喝し、「なんて余計なことをした、なんて余計なことをした…」と泣き崩れる善衛門。貧しい柳田に、善衛門は100両でも200両でもやりたかった。しかし、実直な柳田は1分の金だって受け取るはずがない。また、もしも施しを受けたなどと感じさせたら、潔癖な柳田との友情は壊れてしまっただろう。だから、自宅に招いて碁をうち、せいぜい内々の月見の宴に招いたりすることで、友情を温めていたのだ。それを50両ぽっち(善衛門にとっては“ぽっち”なのだ)の金がもとで、壊してしまった…。「わたしのたった一人の大事な友に、お前はなんてことをしてくれたー!」号泣する善衛門。この場面、涙がこぼれて仕方なかった。


それから、わたしがいいと思ったのは、さん喬師が登場人物の誰も悪者にしなかったこと。この噺を、善意から起こった悲劇として描いていること(“侍と商人の思考の違い”というのも、原因かもしれませんが…)。
この悲劇のもとは、番頭が柳田に疑念を抱いたことではあるけれど、番頭は思慮が足りなかっただけで、悪意があったわけではない。番頭が悪いというなら、50両をひょいと掛け軸の裏に置き、迂闊にもそれを忘れてしまった善衛門も悪いだろう。また、柳田が切腹しようとしなければ、娘だって吉原に身を売ろうなんて思わなかったろう。頑迷な柳田も悪い。可哀そうなのは娘だけれど、あの時代の武士の娘なんだから、父親がああなったら身を挺して助けようとするだろう。ただ、賢い娘だけれど、タフじゃないんだよな(※さん喬師匠は、娘・みつのセリフを、ささやくように静かな口調で言い、はかなげな“薄幸の娘”という雰囲気がよく出ていた)。だから、自分で決めたことだけれど、結局、心が折れてしまった。自分にできること以上のことをしようとした娘だって、浅はかだったといえるかもしれない。
つまり、誰も悪くない。圧倒的な悪意なんかなく、善意の中でも、幸福は簡単に損なわれてしまう。それがせつないなぁと思う。


なくした50両が出てきて、柳田が善衛門邸を再訪する場面。「柳田様に聞いてこいと言ったのは、私でございます。」と番頭をかばう善衛門。そこへ、事前に用事をいいつけて屋敷から出したはずの番頭が現れ、泣きながら「違います!わたしの、つまらない忠義心のせいでございます!」かばいあう主従を見て、柳田は怒りの矛先をどこにぶつけていいか分からず、切なかったろう。「だまれ!だまれ、だまれ、だまってくれー!」と叫ぶ柳田。「赤貧洗うがごとき身でありながら、あの50両、どう工面したと思う。そのほうら、それを一度でも思うたことがあるか?一度でも思うたことが、あるかー!」ここも、泣けてしまった。


最後を安直なハッピーエンドととる向きもあるかもしれないが、わたしは、ああいう結末(番頭が娘の面倒を見て、やがて二人は結ばれ、できた子供に柳田家を継がせる)にしてくれてよかったと思った。ものがたりの結末くらい、しあわせじゃないとなぁ。