立川談春独演会 3/12



3/12(水)19:00〜21:10@川崎市麻生市民館
『紺屋高尾』
休憩
文七元結





談春師は先月の黒談春で「この会では“まばゆいばかりの白”をやる」って宣言していて、宣言通りの二席だった。お客さんも白い人が少なくなかったみたい。今日もいつものように談春師が「今日初めて談春を聴くという人?」と客席に挙手をもとめたが、けっこう手があがったようだった。
この前談春師でこの二つの噺を聴いたのはいつだったかな?と日記をひっくりかえしてみたら、どちらとも去年の白談春だった。『紺屋高尾』は昨年5/20(これは白談春の第一回でした)、『文七元結』は昨年8/7。どちらの印象も前回観た時と大きくは変わらないが、ディテールがちょっと違う気がした。誠に悔やまれるのは、この前聴いた時は細かいことを一切記録してなくて、前回とどこがどう違うのかハッキリしないのだった。だから、なんとなく…という印象なのだが、二席とも前回聴いた時よりもスッキリしていたような気がする(前回、ごちゃごちゃしてたっていうわけじゃないです)。どちらの噺とも、ここ!というところにマトを絞って丁寧に描いた…という感じがした。もっとも、聴くのが二回目だったので、自分が聴き処が分かっててそこを特に意識して聴いてたのかもしれないけど。


『紺屋高尾』 昔、日本には“愛”という言葉がなかった。「I love you」を初めて日本語にしたのは二葉亭四迷で、彼は「あなたのためなら死んでもいい」と訳した…という話をマクラでする。“あなたのためなら死ねる”ってどういうことか?惚れるってどういうことか?談春師の恋愛観がうかがえる『紺屋高尾』。
冒頭、久蔵は「親方!あっし、所帯をもつことにしました」「吉原の高尾太夫と一緒になります!」と朗らかに言ってのける。酒も博打も女もやらない堅物が、兄弟子に連れられて初めて吉原に行く。花魁道中を見物し、目が合ってにっこりと笑いかけてくれた全盛の花魁・高尾太夫に一目ぼれする。きれいだから惚れたんじゃない、その笑顔を見て「この人、親切な人だ」と思った、だから、こういうひとと所帯をもちたい、そうしようと決めたんだ!という久蔵。愚直、初心、朴訥…そんな形容詞をありったけつけてやりたいような男。親方・六兵衛が久蔵に言うセリフに「お前、いとしくなるようなバカだね」というのがあって可笑しかったのだが、その一言は、久蔵という人物を見事に表した一言でもあるなぁと思った。
六兵衛の女房おタキには、談春師の女性観が覗く。寝込むほど高尾に焦がれている久蔵を「ハシカみたいなもんだよ」とあっさりと断じる。初めて惚れた相手と結ばれるなんてことはないのだと言い切るおタキは、ものすごいリアリストだ。談春師は女はこういうものだと思ってるんだろうな。
久蔵はバカじゃない、ただ初心なだけだ、大人になれば高尾が“高嶺の花”だと気づくだろう、そうしてすぐ足元にいる“時分の花”に目がいくだろう、「その時はあたしの出番だよ」とニヤッと笑うおタキ。「遣り手婆か!」と六兵衛。ここのところは、夫婦のキャラクターと、二人がそれぞれのやり方で久蔵をいとおしく思って心配している…というのがよく分かる場面で、しかも面白い。


3年経って、いよいよ高尾に会いにいくことになる久蔵。前回聴いた時は、六兵衛や久蔵の朋輩たちがあれこれ世話を焼く様子が描かれていた気がするのだけど、今回はわりとあっさりしていた。
焦がれ続けた高尾と結ばれた久蔵は、一晩まんじりともせずにどうぞ夜が明けてくれるなと祈り、しかし祈り虚しく朝が来る。「次はいつ来てくんなます?」と訊かれて3年待ってくださいと答えるところ、思いつめたように顔をあげる、その時の久蔵(談春師)の表情がいいなぁと思った。この後の場面が『紺屋高尾』のいちばんいいところなわけですが、談春師の『紺屋高尾』はセリフが素敵だ。3年間、高尾に会うために働いていたけれど、本当に花魁に会えるなんて自分だって思っていなかった、と言う久蔵。でも「会えると思わないと生きていけなかったんです」。いつか広い江戸の空の下でまた逢うことがあったなら、あなたが眉を落し鉄漿をつけ丸髷を結っていても、自分はきっとあなただと分かる、その時は知らん顔しないで「久さん、元気?」って言ってください…恥ずかしくなるようなセリフなんだけど、これを言うときの談春師はホントに純な若者に見えて、不思議とクサくないのだった。
それを聞いた高尾は、つっと横を向いてぽろっとひとつ涙をこぼす(談春師はその涙を小指でそっとぬぐう仕草をした)。高尾「わちきのような者でも、おまえの女房にしてくんなますか?」久蔵「…あいあい」。
いい話だなぁー(って言うんです、この後で話を聞いた六兵衛も)。


この後は、最後まで温かく可笑しく噺は続く。夫婦になった二人が始めた紺屋に、高尾見たさに通う男が、家中のものを染めに出したと話して「うちんなか真っ青で、落ち着いちまってしょーがねぇ」っていうのに笑った。




文七元結 今月は文左衛門師匠(3/1@ラジオデイズ落語会)とさん喬師匠(3/5@鈴本上席・夜の部)でも聞いたのだが、同じ噺でもやっぱり趣が違う。落語には演者の個性やものの見方がちゃあんと現れてしまうものだなぁと、改めて思った。


談春師の『文七元結』は、佐野槌の女将の胆の据わった見事な玄人っぷり、それから吾妻橋で文七を叱りつける長兵衛の姿に演者の個性がもっとも現れている。
女将の(談春師の)博打論はリアルで説得力がある。長兵衛のように勝った負けたと熱くなっているのはただの“博打うち”、そういう輩からイカサマで金を巻き上げるのが“仕事師”、その仕事師たちを束ねるのが“親分”。親分は「こいつには、いくらまで金を貸しても大丈夫か?」と正しく値踏みができなければならない。長兵衛が博打で50両の借金をしょったということは、親分という玄人の中の玄人が、長兵衛には50両を稼げる腕があると判断したということだ。だからあたしが貸す50両は“その右の腕で”稼いで返しておくれ!と言う女将。おっかない、でもカッコイイ。50両を借り、その去り際に、辛抱しろよとお久に声をかける長兵衛に、女将は「辛抱するのはお前だよ」とピシッと言う。「博打ってね、やめられないんだよ」。博打うちが博打をやめて、働いて50両ためるのは容易なことじゃないということも、ちゃんと分かっている。博打のカラクリ、怖さを知り抜いているひとらしいセリフだ。


吾妻橋の場面。
50両を掏られて主に顔向けができない、だから死なせてください…と“死ぬ”一点張りの文七を、長兵衛は「お前、そんなにカンタンに死ねると思うなよ!」と怒鳴りつける。死んだほうがラクなんだよ、だけどみっともなくても奥歯かみ締めて生きてかなけりゃならないんだ…「てめぇだけ、そんな勝手に死ねると思うな!」
それは長兵衛が自分に言い聞かせ、自分を奮い立たせるために言っているように聞こえる。博打で娘をかたにとられて借金をしているみっともない自分。いっそ死んでしまったほうがラクだけど「残されたモンの気持ちがわかるか?」。娘と女房を思えば、長兵衛はなんとしても働いて辛抱して50両を返さなければならない。この場面では、“子供”の文七に対して長兵衛はとても“大人”らしい。子供に体を張って“大人”の在り方を示すことで、自分も覚悟を決めて本物の大人になろうとしている…そんな風に見えた。この噺が楽しめるかどうかは、長兵衛が文七に50両を与える“理由”に納得できるかどうかというのにかかっている…とまでは言わないけど、結構大きな要因だと思う。「死のうとしている人を見逃せない」という気持ちだけでは納得できなくて、さらにその理由が欲しくなるんだと思う。“江戸っ子の意地”というのではちょっと分かりにくいけど、談春師は、長兵衛が本当の責任のとりかたを文七に教えるという“大人の意地”で説明しているように思う、そういう気持ちはわたしにも分かる気がする。


改めて文左衛門師の文七は強烈だったと思った。今日は、空を仰いで「授からないのか」と嘆く場面がなかったなぁと思って、終わった後で隣の席の知人にそう言ったら、それは文左衛門師の演出だと指摘されました。文左衛門師の『文七元結』はあまりにも印象が強く、あれがわたしの中の『文七元結』のスタンダードになってしまったらしい。談春師もやってたような気になってしまっていたけど、よく考えたら、談春師のロジックではこのセリフは出てきようがないんだよな。




※前回『紺屋高尾』『文七元結』を聴いた時の日記は、記録としてまったく役立たなかったという反省があって、ちゃんと細かく書きたかった。面白いことなんかもいっぱい言ってたんだよな、談春さん。でも、ダメだった、いろいろぬけてるところがあるみたい。そう思って読んでくださいー。