白談春 10/28

10/28(日)19:00〜21:15@紀伊國屋サザンシアター
『狸の鯉』
禁酒番屋
〜仲入り〜
『景清』
(すべて談春師)





パンフレットの開口一番にはこはるちゃんの名前があったが、こはるちゃんなしで上記の三席を談春師がやった。前日27日の終演は9時半だったそうで、二日目は時間短縮のためにこんな措置をとったようだ。


今回の「白談春」も、前回同様「前座、二つ目、真打ちの格と身体にあった噺の分け方、修行をしてゆく上での順序を実演(パンフレットの談春師の文章より)」する形で、談春師の落語論的トークをはさみながら落語を聴かせるライブでした。落語の修業、落語という芸能の成り立ち、落語の現在・未来…等々についての談春師の持論が伺えて興味深かった。
断片的だが、思い出すままに書くと、例えばこんなことなど。※談春師の発言そのままではなく、自分が「要はこういうこと?」と思ったことですが。


●話題の亀田一家を引き合いにだして、“師弟”について。
落語の師弟関係と、現代の“教師と生徒”あるいは“競技スポーツの指導者と選手”の関係の違いは、「修行」と「指導」の違いといえるかもしれない。落語においては、教わる立場(弟子)は、教える立場(師匠)を「アイツを教えてやろうか」という気にさせる、そこまでは、自分の力で昇っていかなくてはならない。まして、師匠が丁寧に分かりやすく教えてくれないなどと文句は言えない。一方、現代の教師、スポーツ競技などの指導者には、生徒にやる気を起こさせるところから求められる。教わる立場のものが頭を下げて師に歩み寄っていくのが「修行」で、教える立場が教わる立場のところまで下りていくのが「指導」…。
●『狸の鯉』や『たらちね』が、“前座の修行に最適な噺”とされているのは何故か?という話から、落語における“個性”の問題について。
一般的に、狸をやる時には「狸はケモノだから、人の目を見て話してはいけない」と教わる。また、いろんな登場人物を演じられるようになるために…ということで、“女性”がでてくる『たらちね』を教わる。だが、前座時代の談春少年はそういう理屈に疑問を持っていた。“ケモノだから人の目をみてはいけない”ったって、狸が恩返しに来ること自体、おかしいじゃないか(たしかに、恩返しにくる狸の噺にケモノの生態云々を言われても納得しにくいですよねぇ…)?『たらちね』の清みたいなバカ丁寧な言葉を話す女は、他の落語には出てこない、覚えたって“応用”がきかないではないか?と。だが、当時は分からなかったが、今になって分かる。狸も『たらちね』の清も、演者の個性の入れようのないキャラクターだ。そういう登場人物が出てくる噺だからこそ、基礎をきちんと覚えなければならない前座の修行に最適なのだ(この話を聴いて、初心者レベルの“自分の意見”とか“個性”なんてものは、学習の妨げになるだけなんだよなぁ、それは落語だけじゃなくて何事もそうだよなぁ…と思った)。しかし、個性は魅力にも通じる。修行を続けてある程度のことができるようになってくると、噺に自分の個性をだしたくなってくる。噺に自分の個性をいれるといったことを、昔の落語家は“工夫”といったが、現代に伝わった噺には先人の様々な工夫が残っている…
●80年代の漫才ブームおよび現在の落語ブームの話から、落語における“きまりごと”の意味について(上述の個性の話とも関連している)。
談春師は「落語はきまりごとの多い芸能」とおっしゃっていた。私見ですが、落語って伝統とか正統が残ってるから(薄れかけているのかもしれませんが…)、個性が輝く世界なのかもしれないと思いました(漫才の現状と比較してみると一層そう感じる)。様々なタイプの噺家が活躍する百花繚乱の落語の現在があることには、落語が、制約のある芸能であることが大きかったのだろうなぁと感じた。昇太師の“高座で寝そべる”だとか、白鳥師の“座布団をこねる”というような演じ方は、厳然とした制約がある世界でプロがやることだからこそ意味があるのだろうと思った。
●落語ファンに向けたメッセージのように感じた話がいくつかあった。談春師は「落語を初めて聴く人が、今の世の中にある、いわゆる“エンターテイメント”というものの中で、『映画や芝居よりも落語のほうがおもしろい』(あるいはそれらと比べて『落語もおもしろい』)と思ってくれることが一番嬉しい」とおっしゃっていた。また“「この噺家が面白い」と感じることは、その噺家が自分の好みに合うというだけのこと。だから「あの落語家はおもしろい、あの落語家はつまらない」といった評価の仕方や批評には意味は無い”とか“このまま高齢化の世の中が続いて、噺家もお客も年寄りばかりになったら、落語ファンはみんな「團菊じじい」になるだろう”とか(この話で「例えば、この先、昇太みたいなタイプの若い噺家が出てきたら、昇太ファンは『昇太のはじけ方のほうが凄かった』って言うに違いない」という喩えは、しごく納得がいった)…。こうした話からは、落語ブームの功罪、落語評論、落語の未来等々について考えさせられた。


…というように、マクラや雑談だけでも聴く価値のあるものだったが、そうした話をふまえて三席の落語を思い返すと一層興味深い。特に『景清』は、“落語と個性”、そして“では真打は、どんなふうに噺に個性を出すのか?”ということの実演という意味でも、見ごたえがあった。


談春師の『景清』は初めて聴いたのだが、感動的で、聴いた後、爽やかな気持ちにさえなった。そういう気持ちになるのは、眼の悪い木彫り師・定に共感できるからだと思う。しかも、その共感が、ある場面で一挙に押し寄せる仕掛けになってるので「感動」というところまで行くのだろうと思う。上野清水の観音様へ100日願掛けしてもやはり目が開かないと分かると、定は観音様に「やい、泥棒観音!泥カン!」と毒づく。願掛けを始める前は、100日でダメでも辛抱強く願かけを続けるといいながら、実際は100日経ってご利益が無いと分かった途端に暴れだす始末。それまでも、いい加減な信心をしてきた男ではあるし、その姿は短気で不真面目なヤツにしか思えない。でも、彼の様子を観に来た旦那に諭されると、彼は泣きながら真情を吐露する。100日の間毎日観音様にあげた賽銭は、働けなくなった彼のかわりに、老いた母親が働いてもたせてくれたものなのだ、そんな賽銭が無駄になってしまったなんて母親に言えない、信心してもやっぱりダメだったと母親に言えない…と。この場面で、彼の短気や彼の乱暴が、母を想う心と焦りからでたものであることが一瞬にして分かって、どーっと彼への同情が押し寄せる(…くそー、こういう仕掛けかぁ、こうやって聴き手の感情を揺さぶるんだよぉー、談春さんは!とわかっていても、泣かされてしまうのが悔しい)。
それに、旦那が凄くいい人なのだ。しかも、ただ慈悲深いというのではなくて、定の木彫り師としての腕を買ってるからこそ、心から励ましているということが、セリフから感じられる。こういう流れだから、雷にうたれて眼が見えるようになるという、ややご都合主義的なエンディングも「あぁ眼が見えてよかったね」と心から思える。


私が噺家のタマゴだったら、あの『景清』を観たら、ちょっと恐ろしくて、もう個性とかなんとか言うのはやめよう…という気持ちになるんじゃないかと思う。「徒やおろそかに個性という言葉を使うな」と、「ここまで“突き詰めて考える”という作業をしてから、ものを言え」と言われてるような気がする。もしかしたら、この『白談春』は、落語を含めてあらゆる芸事の修行をする人たちこそ観るべきライブじゃないでしょうか?


しかし、残念ながら来年の「白談春」の予定は未定だそうだ。「落語を初めて聴く人に、初めて談春を聞く人に聴いて欲しい」という談春師の意図とはずれてしまったから…いう理由のようだ。でも、パンフレットには「(白談春の)再開の意思はある」「黒談春はネタおろしを中心とした冒険的な会、他の独演会は得意ネタを中心とした本当の意味での白談春のテーマに沿ったものを考えている」…とあったので、また、こういう噺や談春師の落語論を伺える機会はある!と思います。