紀伊國屋RAKUGO LIVE 三人集 昼夜

9/23
昼の部14:00〜17:00
三三 『お富与三郎・木更津』
談春 『お富与三郎・稲荷掘』
仲入り
ゲスト志の輔 『バールのようなもの
市馬 『子別れ (通し)』

夜の部18:00〜21:00
市馬 『国定忠治(上)』
三三 『国定忠治(下)』
仲入り
談春 『子別れ (上・中)』
ゲスト鶴瓶 『オールウェイズ おかあちゃんの笑顔』
談春 『子別れ (下)』




市馬・談春・三三「三人集」第一回。お客の6割が昼夜通しだったという(夜の部、仲入り後に登場した談春さんがそう言ってた)。自分もそうだが、この顔付け、ネタ出しされた演目を見れば、落語ファンなら“通し”を選択したくなるのが当然と思う。『子別れ』を市馬師と談春師で聞き比べられるというのも贅沢だし、講談ネタが得意な3人で『お富与三郎』『国定忠治』が聞けるのも楽しみだった。
これも夜の部仲入り明けの談春師によると、三人は昨夜ほとんど寝なかったそうだ。お三方の睡眠時間は、それぞれ談春師1時間、三三師2時間、市馬師1時間40分(だったか?)。談春師と三三師は、昨夜、届いた『お富与三郎』の資料に目を通し、二人でどうやって分けてやる?と相談、その頃市馬師は『子別れ』を覚えていたというが、そんな状態で臨んだことを感じさせない高座だった。
パンフレットには“今後、紀伊國屋で半年に一回のペースでの開催を予定”と書いてあり、談春師は「皆さんが、あの会なくなったのかなぁ?と忘れた頃にまたやりたい」と言っていた。時間が長すぎて申し訳ないともおっしゃっていたので、次回からはこんなに長丁場にはならないのかもしれないが、次回も必ず行こうと思う。非常に満足度の高い会だった。


(昼の部、夜の部と順を追って記録したほうがいいかもしれないのですが、とてつもなく長くなりそうな気もするので、昼夜まとめて、ゲストの話→講談ネタ2席→『子別れ』の順で書きとめることにしました。)




ゲストのお二人。超多忙のお二人は、志の輔師は戸隠の蕎麦祭り、鶴瓶師は明石と、それぞれ前の仕事先から会場に駆けつけたという。鶴瓶師は、明石を午後3時に終えて、6時8分過ぎには会場に着いたそうだ(そんな短い時間で移動できるんだ。関西出張から帰ってくるときの参考にしたいわ)。


志の輔師『バールのようなもの マクラでは、毎年訪れている戸隠の蕎麦祭の話。このお祭に参加するには、そばちょこと箸を購入する(700円くらい)。そのセットをもって19件ある蕎麦屋を好きなように食べ歩くシステムで、どの店でも無料でもりを一枚食べられるという。志の輔師一行は、店に入るのに30分並んで3分で食べ終えて次の店に行く、そこで30分ならんで…という具合に次々と食べ歩いたそう(楽しそうで、行ってみたくなった)。その戸隠で“熊を捕獲するために仕掛けた罠に、ヒトがかかってしまった”という事件が起きたそうだ。罠にかかったヒトは、熊の罠だということを充分承知していながら、ふと、熊の餌に何を使ってるのかな?と好奇心を起こして、檻にはいってしまったという。「そういうワケのわかんないことを人間はやるんですなぁ」というマクラだった。戸隠は涼しい土地だが、今年は暑かったそうだ。しかし夜になるとぐっと冷える。昼夜の寒暖の差が激しく、志の輔師はうっかりして風邪をひいてしまったそうで、声の調子があまりよくなかった。でも、噺は楽しかった。『バールのようなもの』については、「志の輔ひとり大劇場」で書いたので、省略。


鶴瓶師『オールウェイズ おかあちゃんの笑顔』 鶴瓶師の体験を基にした“私落語(わたくしらくご)”の一つとなる作品。今年5月の「鶴瓶噺」で、この落語になる前の原型のような話を聴いたのだった。その時は、もっと、テレビ番組やラジオで聴くような、鶴瓶師らしい“語り”という感じだった。それが、かなり地の文章的なところが削られて落語らしくなっていた。鶴瓶師と亡くなったお母さんは、子供の頃からお互いを驚かし合って“びっくりしたほうが負け”という、よく分からない勝負を日常的にやっていた、その驚かし合いが実に可笑しい。例えば、子供の頃、鶴瓶師が母親と相撲をとって投げられた時に、敷居に頭をぶつけて死んだフリをして母親をギョッとさせたというエピソード。倒れて動かない鶴瓶師に、おかあちゃんが「学(鶴瓶師の本名)、ごめんな、“ゴーン”(敷居に頭をぶつけた音)いうたな、おかあちゃんつい本気出してしもた」「学、いい加減、起き!…“ゴーン”いうた…」と、不安になりながら繰り返しつぶやく“ゴーンいうた”がすごく面白い。末っ子の鶴瓶師とお母さんの強い絆と愛情が感じられ、実に心温まる噺だ。鶴瓶師の落語は、この会の主役三人とはかなり方向性が異なるが、私落語は鶴瓶師しかできない素晴らしい落語だと思う。要するに、余人が及ばない才能を一つでも持っていれば、それが落語に活かせるし、充分に戦えるんだなと思う。で、鶴瓶師の“おもろいこと”を発見する、それを面白おかしく語るという才能は天才的で、落語のキャリアの短さを補って余りある。




『お富与三郎』『国定忠治
講談からきている噺は、“語り”が上手なヒトでないと聴いてるのが辛い。その点、三人は安心して聞ける。二つを比較すると、これは談春師から聴いたこと(“昨夜覚えたばかり”ということ)が多少影響しているのかもしれないが、『国定忠治』のほうが良かった気がする。それと『国定忠治』は陰惨なところがなくて純粋に楽しく聴ける噺だということもあるかもしれない。どちらも初めて聴いたということもあって、大雑把なストーリーを覚えるのに留まったが、談春師のお富と三三師の『国定忠治』が印象に残った。それから、そう、忘れてはいけない、市馬師の『お富さん』『名月赤城山』!すごく上手かった。


昼の部の三三師『お富与三郎・木更津』 三三師、辞めちゃった前首相を「『舟徳』の若旦那みたい」、それから「『SWA』のチケットを取れなかったお客様、次善の作でこちらに来ていただいて誠にありがとうございます」(いえいえ、昨日のSWAは夜公演だけ、しかも今日もあるので、全然次善の策なんかじゃないでーす!)、その後、木久扇・木久蔵W襲名披露パーティーエピソード等々のマクラから噺に入る。『木更津』は、日本橋・鼈甲問屋の若旦那の与三郎が木更津で土地の顔役・赤間源左衛門の妾・お富と出会いわりない仲となる、それが源左衛門に知れて、与三郎は源左衛門に体中を斬りさいなまれる、お富は木更津の海に飛び込んで命を絶とうとする、しかし、どちらも九死に一生を得る…というところまで。源左衛門が与三郎の体のあちこちを刀で切ってなぶる場面が怖かった。


三三師が『「木更津」抜き読みでございました」と頭を下げると暗転。ややあって明るくなると、舞台上手に市馬師匠が控えていた。そして、美声でもって、あの『与話情浮名横櫛』の『玄冶店』の場の与三郎のセリフを朗々と。お見事!でした。


舞台はまた暗転。明るくなると高座には談春師がいて、『お富与三郎・稲荷掘』に入った。この演出はなかなか良かったが、惜しむらくは、めくりが「三三師」のままだった。あれは、ちょっと気になった。
「稲荷掘」(“稲荷”と書いて“とうかんぼり”と読むことを初めて知った)は、玄冶店でお富と再会した与三郎がお富と夫婦になり、生来性悪なお富にひきづられ美人局をやるようなチンピラに転落していく、ついには二人の過去を人にしゃべった富八を稲荷掘で殺してしまう…というところまで。談春師のお富の悪女ぶりが印象的だった。つい一昨日の独演会の「紙入れ」のおかみさんといい、談春師の女は怖い。


談春師が高座から下りようとすると、春日八郎『お富さん』の前奏が流れ、上手から市馬師が登場。フルコーラスを聴くのは初めてだった。うまいなぁー。市馬師「紀伊國屋でこんなことをしてしまいまして…」。


夜の部市馬師の『国定忠治(上)』 役人に追われて篭っていた赤城山を下りた忠治と子分一行は、処の名士加部安左衛門に一夜の宿をかり篤くもてなされる。その晩、真夜中に目が醒めた忠治は、人声に気づいて安左ェ門の部屋を覗く。そこには、ホンモノの忠治一行が泊まっているとも知らず、自分と子分の三ツ木の文蔵、清水の頑鉄の名を騙って金を強請る男達がいた。彼らはかつて忠治が成敗した男の子分だった。千両をゆすりとって屋敷を出た男達。忠治は三ツ木の文蔵、清水の頑鉄をつれて待ち伏せし、千両を取り戻す。安左ェ門はその千両を忠治に差出し、忠治は子分勘助の子・勘太郎を安左ェ門に預けて、屋敷を後にする…というところまで。
市馬師、昼間の「子別れ」を終えてホッとなさっていたのだろうか、楽しそうに見えた。


三三師『国定忠治(下)』 三三師のやったパートは、浪曲国定忠治伝「山形屋乗り込み」というところらしい。
女郎屋の山形屋藤造は、十手を預かる身でありながら裏で悪事を働く悪いヤツ。年貢に困って藤造に娘を50両で売った百姓、彼が50両を懐に帰るところを二人の子分に襲わせて50両を奪う。金を奪われた百姓は死のうとするが、それを救ったのが忠治。事情を知った忠治は、百姓の姿に身を変えて、山形屋に向かう。ことを分けて話しても50両を返そうとしない藤造に、ついに忠治が素性を明かし、震え上がった藤造から50両と証文を取り返す…という話。
とても良かった。 先月の池袋演芸場の余一会での『だくだく』を聴いた時と同様に、お−!三三さん、いいぞ!と思った。三三さん、昼の部よりリラックスしていたのだろうか、三三さんのひょうきんなところがよく出ていて、とても楽しかった。藤造は過去にも忠治から懲らしめられたことがあるという設定なのだが、忠治が素性を明かすところで…
忠治「いやさ藤造、久しぶりぃだなぁー」
藤造「それは昼間の…」
忠治「遊びの一つもなきゃ、こっちだってやってらんねぇんだよ」
…というようなくすぐりが入ったりした。名のってからの忠治は長脇差をちらつかせて山形屋に、50両を返せ、100両をよこせ…と次々に要求していくのだが、そのたびに「時に山形屋〜」とじろっと睨みつける、その繰り返しが可笑しかった。


昼の部と同じ流れで、三三師が高座を下りようとするタイミングで音楽と共に市馬師登場、『名月赤城山』(♪男心に男が惚れて〜)を熱唱。ソデで聴いていた鶴瓶師、談春師を「談春談春…」と手招きして、「あの市馬兄サンて、“実力派”と違うの?」とこっそり尋ねたという(笑)。子供の頃、祖父母につきあって観ていたテレビの懐メロ番組でこれを唄っていた東海林太郎の姿を思い出す。当時は全然分からなかったし、いいとも思わなかったけど、こういうストーリーがあっての歌と思って聴くと、しみじみいい歌だなぁと思った。東海林太郎の姿を「懐かしい」とか、この唄を「いいなぁ」と思う日が来るとは、小学生の頃は想像もしませんでした。




『子別れ』
聞きなれているのは「下」の部分なので、ここを特に意識して聴き比べてしまった。談春師の『子別れ(下)』は家元のものをベースにしていることは間違いないと思うが、市馬師の『子別れ(下)』はCDで聴いた志ん朝師匠とかなりの部分が同じで、志ん朝師匠を意識していたのかしらと想像した。もっとも、更にさかのぼれば志ん生とか圓生がいるわけで、そのあたりの名人を聴いてないから、何がベースになってて、それとどんな違いがあるかっていうのは、私にはよく分からないのだけど。どちらもとても良かったので甲乙つけ難いが(ま、甲乙つける意味もないけど)、個人的な好みでは、談春師の『子別れ』が非常に印象的だった。


市馬師『子別れ』
“オーソドックスな”…という言葉が相応しいかどうか分からないが、いろんな噺家で聞いたことのある、聞きなれた『子別れ』だった(だから良くないということでは全くありません)。つい先日志ん朝師匠の『子別れ(下)』を聞いたばかりなので「あ、ここは志ん朝と同じだ」「ここは違う」と分かるところもあった。帰ってきてくれと泣く亀と、泣きながら「おとっつぁんは目から汗が出てるんだ」という熊のやりとりは志ん朝師匠と同じだった。立ち止まって二人の話を聞いている八百屋が出てくるところも同じ。ここの「八百屋ー!何を聞いてンだよ!」はホントに可笑しいなぁ。志ん朝師匠のには八百屋は一回しか登場しなかったけど、市馬さんのは二回出てきた(この「八百屋ー!」を更にしつこく繰り返して、新しい面白さを生んでいるのが志らくさん)。この父子の再会の場面がオーソドックスな『子別れ』のいちばんいい場面なのだと思う。鰻屋の二階で再会するところもいいけど、あそこはハッピーエンドの匂いに満ちていて、力を抜いてサゲを待つだけ…という状態で聞いてしまうので。その場面で、一番言いたいこと(もう一度やり直そう)をなかなか言い出せない熊が「きのう、鰻屋の前でコイツに会って、鰻が食いたいってんで…」を繰り返して笑いをとるところも、おなじみのやり方だ。市馬師の『子別れ』は聴いていてとても気持ちよかった。


ところで、『子別れ』の男の子は、「金坊」と「亀ちゃん」と両方いますが、この違いは何から来るものなのですかね?ちなみに志ん朝師匠は「金坊」でした。


談春師『子別れ』
夜の部仲入り後に出てきたとき、(通しでやると)なかなか下げにたどりつかないのが苦手なので、急遽、鶴瓶師にお願いして間に入っていただいて、上・中と下を分けてやることにしたおっしゃっていた。でも、これは想像だが、上・中と下では話のトーンが全然違うので、談春師は通しでやることを嫌ったのではないかな?という気もする。
また、ご自身は『子別れ』は、上・中のほうが好きなのだとも言っていた(…このあたり記憶あやふや。中がいちばんくだらなくて好きと言ったのだったかもしれない)。下については「ただハスッパなガキが出てくるだけの下になると思います」。これを聞いて、家元の『子別れ(下)』をベースにした下なんだろうなと思った。


上・中は、熊が、子供っぽく我儘でヘリクツばかり言っていて、しかし愛嬌のある男に描かれていた。
特に上(熊が金のない紙くずやをさそって吉原に繰り出す)が可笑しい。ここでは子供のように拗ねる紙くずやを、熊がからかったりいたわったりという感じで、二人のやりとりが実に面白かった。
談春師が登場人物に言わせるセリフ・会話って、ホントに鋭くてセンスがあると思うのだが、ここでもそういうセンスが充分に発揮されていると感じた。昨日は、市馬師のオーソドックスな『子別れ』と聞き比べられたので、それを特に強く感じたのかもしれない。「今日は懐が生憎…」と言う紙くずやに、「そういうことは、普段、金持ってるヤツが言う言葉だろ」と熊。しゅんとする紙くずやに「笑って返せよ!オレが悪い人みたいだろ!」。男子たるもの一歩表に出れば7人の敵がいるのだから、まったく金がないというわけではないという紙くずは、実は3銭しか持っていないのだが、そうと分かると「お前、“もののふ”だな。7人の敵に3銭で立ち向かうの?」「だから、悲しそうな顔すんなって!」。3銭で7人の敵に立ち向かうというくすぐりは、市馬師もいれているのだが、その前後の「“もののふ”だな」とか、「だから悲しそうな顔すんなって!」というのが談春師らしい面白さなのだと思う。熊にからかわれた紙くずやが、なにかと「帰る!」って言うのも、駄々っ子みたいで可愛かった。


下。
家元の『子別れ(下)』を踏まえているんだが、談春師の個性が存分に発揮されていた。
亀が実にいい。家元の亀と同様、ガキ大将でこしゃまくれたことを言う生意気なガキ。この亀は父親との再会の場でも涙を見せない。だが、最後の最後、鰻屋の二階で夫婦が再会するところで亀は号泣するのだ。ここの談春師のやりかたは、亀の生意気が、彼なりに精一杯気を張って背伸びした姿であって、母親と二人で暮らす彼がどれほど心細い日々を送っていたかを気づかせ、胸を打つものだった。
鰻屋にやってきた母親が階下から熊に声をかける。慌てる熊を尻目に亀は黙々と鰻を食べ続け、母親の呼びかけにも、「どうする?」と尋ねる父親にも、一切返事をしない。ここで亀が鰻を食べる様子は笑いを誘うのだが、後になって、ここは亀が父親がどう出るのかを推し量っていた間でもあったんだなと思った。この子がお世話になりまして…と手をつく母親に、もう一度やり直したいとなかなか言い出せない熊。ここで普通は既述の「昨日、鰻屋の前でコイツに会って、鰻が食いたいってんで…」を繰り返して笑いをとるのだが、談春師はそうしなかった。亀が耐えかねたように「おとっつぁん!男だろ!ちゃんと言ってやれよ」「くっついたり離れたりくっついたり離れたり、勝手ばっかしやがって…」となじる。その声が、ひねた子供でなく、9歳の男の子の泣き声になっていてハッとした。そのあと、熊が母親に謝ってやり直して欲しいと頼みながら、何度も「泣くんじゃねぇ、亀」と言う、その言葉で、亀が両親の傍らでわんわんと泣き続ける姿が浮かんだ。胸が熱くなった。


やはりステキなセリフがところどころにあった。冒頭、番頭と熊が木場へ向かう道すがらの会話。分かれた妻子とやり直すことはあきらめているという熊に、番頭が言うセリフ「『あっさりと 恋も命もあきらめる 江戸育ちほど哀しきはなし』っていうが〜」。こんな歌をサラッといれるところがステキだ。また、亀と偶然再会するところでは、番頭が「…いるんだろ。神様が」とつぶやく。こういうのは談春さんらしい。それから、家元の『子別れ』では、亀はもらった50銭で“青い色鉛筆を買いたい”というのだが、それが談春版にも入っていたことが嬉しかった。




ゲストを含めて、全て良かったのだけど、個人的には、やはり談春師の『子別れ』が強く印象に残った。私は、昇太さんは別として、今よく聴いている噺家が等しく好きで、とりわけ談春ファンというわけではない。しかし、先日の独演会といい、この会といい、今の談春師は実に追いかけたくなるヒトだと思った。