談志・志らく 親子会

18:30〜20:43@よみうりホール
※遅刻したので実際は何時に始まったかわかりません
志らく 「片棒」
談志 「木乃伊とり」
休憩 15分
志らく 「茶の湯
志らく 「浜野矩随」





20分くらい遅刻して会場に入ったら、志らくさんが岡春男を唄っていた。席についてすぐに「片棒」と気づく。今日の志らくさんの演目は全て初見だったのだけど、どんなギャグが繰り出されるのか既に知ってるというのが我ながら凄い(マイミクさんの精緻なレポートを拝見していたおかげ)。
でも、やっぱり百聞は一見にしかず、想像以上に面白かった。聴きたいと思っていた噺ばかりだったから嬉しかった。


志らくさんの「片棒」は、長男が映画キチガイ、次男が昭和歌謡キチガイという設定で、私が会場に着いた時は、次男のパートだったわけ。志らくさんの調子は既にトップギア状態で、師ならではの息もつかせぬスピードと勢いはもうとまらない…という感じだった。あぁ、コレ最初から聴きたかったー!と、遅刻が非常に惜しまれた。


続いて家元木乃伊とり」。これも自分は初めて。吉原「角海老」に行ったきり帰ってこない若旦那を迎えに行かせた番頭が帰ってこないので、大旦那が次はお前が…と鳶の頭に頼む場面。「迎えにやった番頭が帰ってこない、頭が帰ってこない…」とやってしまい、一瞬、立ち往生する。権助がわけのわからない不可思議な音を立てて酒を飲む場面や花魁が権助にまたがるシーンは、たぶん全盛期の談志だったらもっと面白いんだろうと思った。下げはふと思いついたのかな?って感じだった(権助が戻ってくるのだが、彼を連れ戻したのは、誰あろうアノ人…)。今日の家元は精彩がなかった。最近、知人から借りた「談志ひとり会」で29歳当時の家元を聴いているので、そういう印象がひとしおだったのかもしれないけど。「老いる」ということがどういうことであるか。家元の高座を観て思うことは、つまるところ、いつもそれに行き着く。今日も。そういうことはあんまり考えたくない。でも、家元の高座を観てると、自分もそこから目を背けちゃいかんと思う。


休憩が終わって7時55分。その後約50分弱で「茶の湯」と「浜野矩随」。
茶の湯は少し短めにやったのかもしれない。茶の湯に招かれた長屋の住人達が次々と引っ越そうとするところは省かれていて、何かに憑かれたようにヘンテコな茶の湯に没頭する隠居と定吉を描くことに絞って、たまらなく可笑しかった。今日は、幕が下りた後、再び幕があがり、家元と志らくさんが登場して短いトークがあった。そこで家元が志らくさんの「茶の湯」を、結構な『茶の湯』だ、並みの噺家があれをやったって面白くもなんともないと評したが、そう思う、志らくさんの隠居は、茶せんを“ピーター”、利休饅頭を“ジョンソン”って呼ぶのだが、これなんか「だから何?」って感じでしょう、でも「おい、ピーターをとってくれ」とか、そのギャグを挟む間合いが絶妙で、聴いてるとたまらなく可笑しいのです。青海苔とシャボンで泡だてたお茶の入った湯飲みをもって“実験室の博士”みたいに目が据わってヘラヘラと笑う隠居も可笑しかった(自分はとんねるずのコントを思い出した)、あれも直に見ないと、あの面白さはほとんど伝わらないだろうなぁ。
「浜野矩随」しかり。矩随がつくった出来損ないの彫金の銘が可笑しい、「ひょっとこ天狗」(どんなに悲しいことがあってもそれを観ると笑い出してしまう)「しいたけ地蔵」(一目見るなりいたたまれなくなってしまうくらい、情けない)。で、この「ひょっとこ天狗」「しいたけ地蔵」が、噺の所々に顔を出して笑いを誘う。母親の自害を「自分、志らくはこう解釈している」とあっさり片付け、湿っぽさを排除している点も好感がもてた。
志らくさんにとっては、名人伝であろうと人情噺であろうと、すべての噺は、志らくさんが好む世界―軽くておしゃれなギャグがいっぱいのクレイジーなおもしろワールド―を織り成すための材料の一つに過ぎないみたいだ。主張とかそういうものは一切なく、そこにはただ志らくさんが好きな世界が広がっている、その世界を自分はただ面白がればいいのだ。…という風に志らくさんの楽しみ方(自分なりの…)を体得しつつあります(体得したよーなつもりになっております)。


最後のトークでは、ほとんど家元一人が話していた。いつまでこうやって高座にあがるか、自分にもプライドがある、老醜を見せたくはない…という意味の話をした。最近の家元はこんな話をすることが多いけれど。