5/31鈴本余一会 柳家小三治独演会

18:30〜21:30@鈴本演芸場
柳家ろべえ 「元犬」
柳家喜多八 「おすわどん」
柳家小三治 マクラ約50分&「小言幸兵衛」
仲入り
柳家燕路 「だくだく」
柳家小三治 「お茶汲み」

最近、談春師の高座を見ることが多かった。それで、一昨夜は談春師と小三治師匠を比べて、いろんなことを思った。

小三治師匠の落語の素晴らしさとか別格の所以はうまく説明できない、つまりよく分からないのです。でも、素人なりに考えてみると、まず、テクニックとか、共感をよぶとか、落語に対する姿勢とか、そういうことの一切をもう超えてしまっている気がする、小三治師は。一切のけれんがないみたいな。それは「小言幸兵衛」を観ていてすごく感じた。
一月に談志一門会でみた談春師の「小言幸兵衛」では、豆腐屋ののろけ啖呵に客席から拍手があった。それはお客がそういうのを求めているということもあるけど、談春師の芸にそういうのを誘うところがあるからだと思う。でも、小三治師の「小言幸兵衛」は、うまいとか凄いとかそんなことを気づかせない、考えさせない。
それから「お茶汲み」。談春師と小三治師の廓話の捉え方を比べると、やはりさすがに小三治師は人間として老獪というか大人だと思う。談春師は廓話のテーマに現代の恋愛をもってきた。師の辛口恋愛観はカッコよかったし、自分も共感を覚えたが、小三治師はもう一歩上をいくというか、欲とか男女の仲とかを超越して“人間と遊び”というテーマを感じさせた(師はそんなこと意図していないかもしれないけど)。「お茶汲み」という噺は、やりようによっては男と女の“騙しあい”の滑稽みたいなことに目が向いてしまう気がするけど、師の「お茶汲み」は、廓という所詮色と金の欲の世界、そういう処にいながら、お互いに騙したり騙しにのってやったりしてつい遊んじゃう、そういう生き物人間の姿がとても微笑ましかった。


人がどんなときに喜びを感じたり哀しみにくれたりするか。そういうことは、みんながもう分かっているのだから、言わない。言わないけど、小三治師の高座の空気には、そういうこと―人のいろんな感情や心の琴線に触れるあれやこれや―がたっぷり含まれていて伝わってくる。なんか名人がさらっと描いた水墨画とかパウル・クレーの鉛筆画みたいと思う。なんにもかかれてない白いところがものすごい意味ありげで惹かれちゃうんだ。


でも、落語では余計なことは語らないけど、マクラでは饒舌なんだな。そのギャップが楽しいし、あの長いマクラで、落語や人生を語っているから、その後に聞く落語の味わいが深まるのだよね。一昨日は「お話ししたいことは、これといってないのですが…」と始まって50分。
こんな話だった。
ハワイというのは師の体内時計のリズムに合わない場所で、師はあんまり好きじゃない。しかし、せんだってお嬢さんに付き合ってハワイに出かけた。飛行機の中で時差を調整するためになんとか眠ろうとして睡眠薬ハルシオンを服用。いつも1/4錠なんだけど、その時はいつもより多めに1錠半。そのせいかハワイに着いてから3日間くらいの記憶がない。帰国して鈴本と浅草の10日間興行で「茶の湯」をやったのだが、突然“根岸の里”という言葉が出てこなくなった。ハルシオンのせいか、老化のせいか…?(そのお気持ち、お察しする。自分も最近、いろんなことを忘れるし覚えが悪くなったと感じるので)やむなく左後方を指して「あっちの方」とやった。しかし、その経験で呪縛がとれたというか、一筋の光明を見た気がした。自分は今まで、あまりにもちゃんと落語をやろうとしていた(…ここで、かつてのTBS落語研究会の出演者の素晴らしさ―名人が綺羅星のごとく揃っていたのだ―、それがあの会に出る時の師にどれだけプレッシャーだったか、今の若い噺家にとっての落語研究会とは位置づけが違う…という話なんかがあった)、しかし自分の落語はこういう感じ(いい加減)でいいのだと気づいた…という話。前述の師の落語のけれんのなさというのは、この話からも感じたことです。
それから、ステージにかけるつもりで練習している歌「青葉の笛」の話(師が唄ってくだすったそれは、自分も聴きおぼえがあった「♪平家の公達哀れ〜」ってとこ)。師はこの歌を映画「無法松の一生」(坂妻版)で知ったのだが、改めて聴いて、いろいろ調べているうちに、いろんな想いが湧いて聴いていると泣けてしかたがない。歳をとると涙もろくなるというけれど、それは歳で耄碌したということだろうか?歌詞に描かれた情景だの、自分の経験だの、あれやこれやがつながっていくから、若い頃よりもいろんなことを深く感じるためじゃないか?…そんな話。そこから「小言幸兵衛」に入ったわけです。幸兵衛の暴走する想像力は、歳をとって次から次にいろーんなことが思い浮かんでしまうからなのかもね。


その他、昨日の高座のこと。
喜多八師「おすわどん」師は焦ったヤツやセコイ男をやるとき「…っそそそそそそそれはー」とか「…あったたたたたた、あーたねぇー」とどもりますね、それが過剰で、自分はおもしろさとしらけるのスレスレと感じることがあります。昨日はホントにスレスレでした。芸の“けれん”ということが気になっていたからかもしれませんが。
燕路師「だくだく」師が登場したのが8時40分頃。座るなり「…夜もだいぶ更けてまいりました」とやって笑いを誘った。貧乏人と泥棒が“つもり”で家財道具をそろえたり、たんすをあけて着物をとったり、斬ったり…これも遊びを感じさせる噺だな。「○○のつもりー!」って燕路師の甲高い声が可笑しくて楽しかった。

それから、小三治師、「お茶汲み」のマクラで昔「廓話をやるにはそういうところを知っておかなくちゃ」と、弟弟子達の案内で吉原界隈の泡のお風呂があるお店にあがったエピソードをされたのだが、こんな話はするもんじゃないと照れていた。途中で、お茶を飲んでちょっと沈黙し「…えへっ」と笑った、その間と恥ずかしそうな笑い方が、失礼ながら、とても可愛らしかった。