5/20 白談春 第一回

19:00〜21:00@紀伊國屋サザンシアター

Dr.ハルの特別講義
談春師、白衣で登場。今日のテーマについて解説。
「文違い」
仲入り
「紺屋高尾」

「白談春は、落語初心者の方々へ向けたライブです」
…というパンフレットの最初の一行が虚しい(笑)。だって客席は黒い人々でいっぱい。初めて落語を聴きにきましたという人はごく少数だったようです。そんな昨日の会。


金が無いから恋愛できない男
金が有るから恋愛できない女
という図式が現代にはあるように僕は思います。ちょっと説明不足は承知の上で。
それはそのまま廓話の世界に当てはまると思ってテーマとして選びました。
(パンフレットより抜粋)


談春師が、現代と廓噺の世界にどういう共通点を感じたのかは分かりませんが、自分が昨夜2つの噺を聞いて思ったことは、今も昔も、本当に心が震えるような恋愛などというものが成立するのは稀有なのだ、“心が震えるような恋愛”というのを、人のマコト(誠意とか真心とか…)といってもいい、ともかく、そういうものは滅多ない。だけど、誰もがそういうものをとても欲しがっているのだ、みんなマコトが欲しいのだけど、そのくせ自分のマコトを出し惜しみしてるのだ…とかとか。そんなことを思った。


「文違い」
談春師は、最初の特講で、この噺は、聴いているお客さんの頭に昔の廓の夜の暗さが浮かんできたら、自分としては成功…というようなことを言っていた。落語テクニック的なことはさっぱり…な私なので、談春師の工夫というのを具体的には書けないのだけど、自分には、女郎と客がそれぞれに、好きな相手に来た手紙を盗み読み、悔しさと失望が胸いっぱいに広がっていくというシーンが印象的だった。改めてこの噺を考えると、彼氏、彼女の携帯を盗み見てもめる男女とか、客からもらったブランドものを質屋に売るお水な女子とか、そんな現代と通じるような気もします。


「紺屋高尾」
特講で「たとえ落語のメロディを壊しても、思い切りクサくやりたい」と言ったのは、これなんだなと思った。
ちょっと話が逸れるが、自分がライブの落語に足を運んでいるのは、ドキドキとか、ワクワクとか、感動とか、胸キュンとか、まぁなんと呼んでもいいけれど、そんなような気持ちをできれば味わいたいと思っているから。だから、その噺家がどんな風に落語をやるかというのは実はどうでもよく、要はどんな思いにさせてくれるかということが大事で、そこで噺家を評価しているところがあります。たぶん私のような最近落語を聴きだして「落語かくあるべし!」的な落語の常識のない人間や、これから落語を聴いてみたいと思っているヒトの多くは、そうなのではないかと思う。その意味で、昨日の談春師の「紺屋高尾」は、落語のメロディを壊していたのかどうかは分かりませんが、まちがいなく聴く人の心を震わせる素晴らしいエンターティメントで、毎度のことながら談春師凄い!ブラボー!と思った。


自分ににっこりと笑いかけてくれた高尾太夫を「あのヒトはやさしいヒトだ、だから一緒になりたい」と思ってしまう心のきれいな久蔵。そんな純な想いをとげさせてやりたいなぁなんて気持ちもある心優しい親方。純故に天然の久蔵と親方のかみ合わない会話がとても可笑しいのだけど、更に、親方のおかみさんの存在というのがニヤッと笑わせてくれる。死んでもいいと思うほどヒトに惚れるなんて一時ののぼせだ、そんなのぼせがずっーと続くなんてことはありえないのだと、どっしりとリアリストのおかみさん。こういうキャラクターが登場するのが心憎い。
この「紺屋高尾」では、久蔵が想いをとげられたのは、ただ久蔵が一途だったからということではなく、久蔵は純粋だけど「バカじゃない」ので、彼には冷静に考えて諦める気持ちもあった、でも「そんなことがホントにあったらいいなぁ」という周りの願いが恋の成就を後押ししたんだ…ということになっていた。その辺りの説明と、久蔵&親方の会話の面白さ、おかみさんのキャラクターが相俟って、自分はこの夢物語にちゃんと酔えたのかなという気がする。
久蔵が高尾に想いを告白する場面。久蔵は、一緒になってほしいとは言わず、もしも再び逢うことがあったなら、その時は笑ってほしい、その笑顔で自分は生きていける。なんてことを言う。…クサい!でも、ウルッとくる。


好きな女のために3年休みなく働いてためた金を投げ出せますか?好きな男のために何不自由ない暮らしを投げ出して紺屋職人の女房になって手を真っ青にさせて働けますか?心が震えるようなことというのは、それくらいの代償であがなうものですよ…と、談春師が恋ができない男女をフフンと笑ってる気がした。こういう姿勢がかっこいいのだなぁ、談春師は。